朝、家の前から子供の遊ぶ声がします。見ると舞い散る桜の花びらを帽子や虫取り網で笑いながら掬っています。ずいぶん風流な子供たちです。本人たちはきゃっきゃっと遊んでいるだけですが。
その日の夕方、何か飲みたくなって先日某輸入雑貨屋で手に入れたカモミールの袋を開けました。無愛想に花を摘んで袋に突っ込んだといった感じがちょっと面白かったので手に取ったものです。
毎日コーヒーばかりで滅多にハーブティーは飲まないのですが、なぜか今日は無性に飲みたくなりました。何か体に足りてないのか。
茶漉しをカップに乗せてお湯。雑な淹れ方ですがとりあえず飲めればという横着さ。
花が膨らむのをじっと待っていたらふと朝の花掬いの子供たちを思い出しました。似ている・・・。
普段繋がらない、というか繋げて考えない何かと別の何かが自分を通して繋がると、新たに回線が出来た感じがして気分が高揚します。
こういう思いを馬鹿げていると一笑に付する人もいるでしょうが、時々するそういう経験の中でも何度も繋がる回線には自分にとって大事なものがあるような気がしてならないのです。
根拠はまったくありませんが、意識の外の何かが自分に働きかけているときに、自分の意識がそのもやもやの行き場を探して繋げたがっているような気がするのです。そういうものは直感的な感覚なので、かたちにするのは手間や時間がかかったりして苦労します。後で振り返ってやっと分かることも多いです。
でもこれ。繋がってしまったら仕方ないのです。なにかをつくる人間は根本的にはその回線に抗えないのではないかと思っています。いや、何かをつくる人には限らないかも。
何気なく掬った掌中に掬ったつもりのないものが入っていること、ありませんか?
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