バルテュスの部屋

 現代の油画のコクの味わいで思い浮かべるのはバルテュス。都美術館で大回顧展。  画集で何度も見たもののこう描いていたのか、など作者の気持ちの揺れ動きを抑揚のある筆致や絵の具の層から感じる様で新しい発見もあり、見終えてああ油画もいいなと思いました。こういう展覧会を見ると、すべてをフラットに奇麗に仕上げてしまう絵の、心の通わないつまらなさを感じてしまいます。  思ったより込んでいなかったお陰で離れたり近寄ったりが自由に出来ました。絵の前に立つ距離によって楽しみ方の幅がありました。  画集だと構図の古典的な線による区画分けのリズムなどが強調されて見えていましたが、現物を前にするとその静けさと怪しさの混じった舞台的な雰囲気に飲まれます。  1mほどの距離に近づくとグレーの豊かさが渋くも味わい深い。こういう色は絵を前にしてこそ。しみじみ美しい。そして美しく見せるのが困難だろうと思います。垂涎。モデルやコスチューム、器物などもいいのですが、何と言ってもここまで壁と床というつまらないモチーフだけでも楽しませてくれる画家はそうはお目にかかれないのではないか。風景を描いた絵でも普通っぽく見えて、実際は作者のコントロールが注意深く隅々まで行き渡っているようで長時間見ていられます。  うんと接近すると今度は絵の具の重ね方が目に入ってくる。薄い所はセザンヌのようにキャンバスの地が見えていたり、最初に塗られた層が最後まで重要な部分に露出していたり、かと思えば何層も重ねた痕跡もあり、と自由自在。辛抱強くこだわりを持続しながら仕上げた仕事の成功を見ると嬉しくなりますね。  眼球に贅沢をさせてきました。
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 個展搬出でまたどっと引き返してきた作品達を整理しつつアトリエの片付けやら腐食液周辺の改良をしていました。  今回は新旧混ざった作品展示で、割とまとまった方向性のようなものが見えてくるなと並べたのを眺めながら思いました。懐かしい顔に出会ったり、何度か来てくれる方もいたりで段々突っ込んだ話にもなり退屈しませんでした。  地元の方や遠方の方、新聞で見て来てくれた方、偶然飛び込みなどの幸運に恵まれ、作品もたくさん嫁ぎました。  気まぐれですが嫁ぎ先などに暑中見舞いを送りたくなったので刷ってみました。そのうち届きますお楽しみに。
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 今日は溜まっていた片付けと暑中見舞い刷りが終わったので涼しかったことも手伝って陶芸小屋まで自転車を漕ぎました。往復3時間ほど。右足左足右足・・・同じ動作の繰り返しが気持ちいい。登山が好きなのもほとんどそれがしたいから。  芝川の草は強い影を反転した真夏の空に落とします。
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 誰もいない小屋に着くとすぐに土を捏ねるけれど全然カタチにならない。3個目くらいからやっと器のカタチに。なまる。相変わらず出そうとしてない味が思いっきり醸されてしまいますが、土にしばらく触っていれば気持ち良くなってくるので良しとする。
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 結局一息で5個作って落ち着くとすぐに自転車で帰りました。運動と土でだいぶ満足。あとは絵が見たくなったので銀座へ。流石に電車。  養清堂画廊で先輩の版画家小野耕石さんの新作個展。原点回帰とおっしゃっていましたが確かに大学時代の鱗粉のような作品大~小。立体的ドットの作品ですが角度による色の移り変わる迫力も自然なムラのカタチも独特で面白い。見続けているせいか変化に気付きます。少し前までは機械の部品っぽい点柱でしたが今回は生き物の一部っぽい印象でした。写真だと映らない体験型の作品。ストイックな挑戦をし続けている感じが伝わってきます。10日まで。おすすめです。
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 その後ブリジストン美術館がまだやっていたなと思いだしハシゴ。マチスの「ジャズ」、ステンシルの軽やかさと切り紙コラージュ原稿のニュアンスが楽しい。手技を感じるのに手技とは一線を画す。ルドンのリトグラフ「夢想」。こちらも物語性とビジュアルの関係が詩的で絶妙。じっと見ていると違う世界に引き込まれそうな怖さも魅力。  繰り返す手技にこだわるほど手技と距離が出てくる印象を与える版、という表現には今でも新鮮な発見がある気がします。

朝靄の中のコーヒー

 千駄ヶ谷駅下車、まだ屋根に雪が残る国立競技場を通り過ぎ、知らぬ間にきっちりと陶芸作家になっていた高校の後輩、坂下ブライアン遼介氏の展覧会へ。  知り合い同士の作家でも、お互い専門分野が少し離れると案外動向を知らないものですが、個展中に彼が代々木上原の会場を偶然通りかかってくれてまた縁が戻りました。制作発表していると歳や分野を越えてそういうつながりも出来ます。  SHIZENという名前はありそうでない、細部まで気がゆき届いている感じの綺麗なスペースでした。  彼の他にも陶、金属、耐熱ガラスの作家の作品。さらにコーヒー焙煎や焼菓子もやっている、コーヒータイムの空間を演出するような雰囲気の展覧会。今月末まで。
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 彼の作品は数種類のサイズのカップとコーヒードリッパー、サーバーなどで、主に2パターンの色味で展開しているようでしたが、今回作者一押しの新作シリーズの中からひとつ掌に収まる小ぶりのカップに決めました。  ちょっと珍しい、微妙な色合いでなんと形容したらいいかと思っていたら、彼が朝靄と呼んでいたのが良かった。空気の色を無限に感じる時間。モネも描いていました。  飽きなさそうです。
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松本俊介展

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 用賀駅から砧公園までは気が入っているのかいないのかよくわからない、最初は凝って作ってみたものの、という作りの適当な住宅街の細道が続く。公園の木々の合間を縫うように散歩しながら世田谷美術館の松本俊介展。https://www.setagayaartmuseum.or.jp  好きな作家ですが、こんなにまとめて見られる機会には今まで恵まれていなかったのと、去年の個展中に見てきた友人が心打たれたという話をしていたので行ってみました。  画集で見て知識として知ってはいるものの本物と印刷物との差が大きい作家だと思いました。特に彼特有の透明感と重厚さを兼ね備えた絵肌の強さと、暗さの中の色味、軽妙な線の魅力は図版で見るのと大違い。またまとめて次々見ると特に今の自分に強くひっかっかってくる作品に気付き、呼ばれるようにそこで足が止まるとしばらくは対峙したまま動けずに時間が過ぎます。  シンプルな見た目だけれどじっくり見ていられる複雑さを持ち、突っ込んで観察しようとするとあっさり突き放される。軽くもあり重くもある。ロマンチックな雰囲気が漂うかと思えば冷徹なリアリスティックさで見返されます。  なんなのか説明できないけれどちょっと超えてくる作品はどこがどうだからという話ではありません。ただ、「対峙」と書きましたが、そういう気持ちを起こさせる作品が多いようにも感じました。それは戦中を生き若くして没した作家故の厳しさなのか。芸術家も国から圧力をかけられる時代にあって松本俊介は、作家は自分の内から沸き起こるものしか表現しようがない、だからお国の為になる絵を描くべきだと言われてもそんなもの描けないと文章で公言していた作家だったそうです。  戦中に素晴らしい自画像が制作されているのは、時代や自分の制作の迷いの中での彼の断固たる決意を見るようで鬼気迫るものがあります。  そういったことを裏打ちするように、時代を追って松本俊介の作品を見ていくと彼の精進による作品の輝きが伝わってくる展覧会でした。特に30歳前後毎年続けて描かれた大きな代表作の家族や自画像は前半生の結晶のような迫力。立てる像が三十路!凄い境地・・・。
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僕は草

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 タイトルは展覧会のタイトルの一部。国立駅へ、10代の頃からの付き合いの高橋学説氏の個展を見に出かけました。  大学時代の通学区間だったので懐かしいとは思うけれど国立駅自体はここ数年で工事が進み随分印象が変わりました。先日多摩美の芸祭に行ったときにも通過した母校の駅近くもかなり風景が変わっていました。久しぶりに見ると、知っていると思っていたものの予想を裏切る変化に驚くこともありますが、彼の久しぶりの個展はどうなっているかなと思いながら向かいました。  記憶では、作品点数は今までの彼の個展史上最も多く、また大小並んだ作品もギャラリーの空間と合っていて近年の彼の制作テーマに沿った作品たちを一堂に見られるいい展覧会でした。グループ展でぽつぽつとではなくある程度まとまった個人のショーとして見せられると作家のひとつの問あるいは答えとしての説得力を持ちます。個展をすることの大きな意味だと思います。アートイマジンギャラリー27日まで(http://www.art-imagine.com)。  今回は今までの傾向と違った質感を持った新作があり、興味深かった。今までの仕事の質も上げつつ新しい展開も取り込んでいく。そういう動きはものを作っているとなんとなく分かるような気がします。  彼の家できのこ鍋をいただきながら奥さんと3人でほとんど作品や制作の話。明け方まで話が尽きない。  新しいことに挑戦するのは今まで大切にしてきたものを捨て去ることでもありますが、本当に手放せないもの、まだ捨てたくないものを地面に落とさない為でもあるのかもしれません。しっかりとした重さと質を確かに感じ、気に入っているものは捨てるのは覚悟がいるだろうけれど、捨てた時の自由もまた大きいのかもしれません。  浜や山歩きをしていて、気に入ったものを両手に2つ掴んだままだと新しいものを掴みづらい。これはいいや、と片手を手放すと同時に代わりに、と新しいものを掴む瞬発力を頼りに歩くときもある。袋を使わないときはそれ自体緊張感があって楽しい。誰かの手を借りて3つ無理矢理抱えてみると、自分の足元が見えなくて転びます。
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 庭のマグノリアの黄色が青空に映えている。季節によって見かけの姿を大きく変え、また来年似たように黄色い葉が見られるはずだけれど、その葉は確かに今年の葉ではありません。大きく変化を見せながら目に見えない速度で全体が成長しています。

女性の女性像

女性像を描く女性のおすすめ展覧会。
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 銀座 ギャラリー椿/GT2で。大学の後輩だった岩渕華林さんの個展。    学生の頃はスクリーンプリントを用い女性やそれを象徴するような服や道具をモチーフにし、ハードエッジでほぼモノトーンの、強い緊張感を放つ作品を見せてくれていましたが、今回は墨やアクリルを使った作品の個展。  新しい質感が増えていました。案内状の作品が個人的には好み。ちょっと他の作品と違う匂いが・・・気のせいかなあ。次回以降の個展で分かるかもしれません。6月2日まで。  
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 赤羽 ぎゃらりー遊での受験の頃の美術研究所の先輩だった小川香織さんの個展。  意味深なモチーフに埋もれるような少女。神話やアリス、赤頭巾など古今東西の古来からあるテーマが現代の少女に憑依したような密度の高い絵を鉛筆で。  毎回きっちりした仕事をたっぷり見せてくれる先輩作家です。モチーフの内容なども丁寧に話してくれました。大きな作品が迫力があり。銀筆やアクリルを使ってみたという小さい新作もまたいいです。今月27日まで。  比べたりするのは失礼かもしれませんが、偶然同じ日に女性像を主役にしてほぼモノトーンの作品だけれど対照的な画風の2人の作家の個展を見たのでなんとなく印象に残りました。以下勝手な感想。  岩渕さんの作品の女性はいつも顔がないか後ろを向いているので感情や個性を感じさせません。違う人のように描き分けられているけれどそれがあまり意味を持たないように記号化されているよう。  無音の場にいる決して見返してはこない、見られる存在の女性はこちらに対して無防備なのか鉄壁なのか迷ってしまうような不思議な距離を感じます。  小川さんの作品の女性は大抵こちらをじっとまなざすように忘れられない目を持っています。色々なことを演じているような異なった少女が登場しますが、いつも同じ少女に見えるから不思議。顔があるのに。もちろん本人の自画像ではないのだと思いますが、そう思うほど絵で描いているというよりある誰かが「入っている感じ」がします。  どちらも男から見ると「女の世界」を感じる作品なのですが、女性が「女性である他者」を見つめる目と、「女性である私」の中に入り込む目があるのではないかと思います。それも男である自分が「女性」に対して抱くイメージのせいかもしれませんが・・・。でもその辺のことは男性とは違ったテーマが隠れていそうで面白いですね。  それをぱっとかたちにして出して見せてくれる、2つの個展。始まったばかりです。

根と芽

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 不思議なオブジェが並んでいます。    六本木Shonanndai My Gallery(http://www.shonandai-g.com) で開催中の大矢雅章さんの個展。  今まで多くの作品が銅版を中心に発表されている敬愛する作家で、前回の個展は外国の詩人とのコラボによる爽快な観後感の大きな版画集の展覧会だったので、そこから比べると作品の表面的な部分は随分違って見えました。素材すら一見するとよく分からないのだけれど妙に惹きつけられてじっと見てしまいます。もっと見たいという気持ちが沸いてきます。  見た目はお菓子とか、甘い何かを彷彿としますが食せば一発で腹を壊すだろうというところがそそられます。  ご本人から会場でお話を伺っていると木をくりぬいて土手を作り、そこに銅版で使用する素材を駆使し、団栗などを固めているとのこと。生命の営みや植物などをモチーフにした銅版を制作してらっしゃることを思い出し、見掛けは異なっていてもテーマや素材など根っこが繋がっている印象を受けました。  油絵、銅版、オブジェ、エッセイの4つの表現手段がようやくひとつの個展会場で見せられたとおっしゃっていましたが、表現したいイメージによって素材の幅を広げていくことで版画から始まって版画に終わってしまう作家とは一味違った独自のスタイルを築いているように思います。      ひとつの素材ではなく複数の表現方法を並べた時に作者の根っこの繋がりがよく見えて、見る側のイメージを広げるような展覧会になるのであればそれはすごく効果的な面白さを生むのだなあと実感。    地面に見えている芽はいくつもあって違う種類の植物が育っていき、それぞれ楽しめる。そのうちに根を想像して楽しんだりする。そして全てを包んでいる大地があったことにもある日気づくといったような出会い方は作品にとって幸せだと思います。    いい刺激をいただき帰路に着きました。    

雹到来

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 5月も雹、降るんですね。  天空はるか寒いところからはるばる落っこちてきた感じ。  真っ黒な雲が頭上に広がると、不穏な予感が体に眠っていた何かを呼び起こすようでわくわくします。この感覚は何なのか。はるか祖先の記憶を受け継いでいるのかただの趣味か。  天気に限りませんが、迫りくる怪しさを味わいながら一人でニヤリとしているうちに、行動が遅いと人から指摘されてしまいます。    まあるい雹を見ていたら草間彌生さんの作品を思い出したので土砂降りの中レインウェアを羽織って自転車に跨り北浦和へ。雨のなかわざわざ、とも思いましたがペダルを漕いでいるうちにだんだん気持ち良くなってくる。体動かし足りないのかもしれない。  埼玉県立近代美術館は公園の中にある慣れ親しんだ美術館です。よく学校が終わってから展覧会を見て、夜には公園の中の踊る噴水を眺めました。  そんな場所もすっかり草間彌生色に染まっていました。
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 強烈なオブジェやたくさんのタブローなどパワフルな展覧会。とにかく色々な方法で説得を受けているような気分になります。  タブローは3枚の人物のが良かった。今回のための特別出品らしい吹き抜けの巨大なバルーン人形は迫力満点。1人ずつ入る「魂の灯」という小屋も一転静かなざわめきを感じ、印象的でした。ちなみに「魂の灯」は7~8人待ちでしたが空いている方とのこと。  都心ならともかくこの美術館がこんなに混んでいるのも珍しい。作品も圧巻ですが、きっとそれ以上に作者の持つ引力が会ったことのない他人もひきつけるのでしょう。そう言えばポスターが作品ではなく本人のアップというのも象徴的ですね。
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埼玉県立近代美術館 http://www.pref.spec.ed.jp/momas/index.php?page_id=0

収集考

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 東京大学赤門を入って右へ。奥まで歩くとひっそりと東京大学総合研究博物館が建っています。  好きな場所。    時々特に用も無く行きます。ここには植物動物鉱物など様々な種類の標本があるのです。人はいつもまばらで大抵外から切り離されたように静か。そういう隠れ家的な場所というだけでふらふら入ってしまうのですが、さらに標本が好きなだけ見られるわけです。しかも入場無料。  今回はたまたま学術標本の表現という題の展示をしていました。キュラトリアル・ワークなるものにスポットを当てているらしい。そのままの意味ならキュレーターの仕事。キュレーターというと美術関係の仕事の方を連想しますが、他にも使うんですね。と言うか美術で使っている方が後なのかな。  キュレーター(curator)つまり“curateする者”。  特定の専門性を持ってコレクションの収集、研究、保全、利活用、公開展示等の任に当たる人のこと。だそうです。それを後世に伝え継承していくことがキュラトリアル・ワーク。  立派。とても真似できそうにないです。でも彼らのおかげで例えば今回は土偶や骨などを気楽に見られたのだなあ。  ところで収集した虫や貝を小さな箱に並べ、それを大きな銅版に刻むという作品をしばらく制作していました。その時は自分がそうすることが、特に意識的にやったわけではない自然な表現だったのですが、見た人からは標本みたい、とか博物学的だね。という感想をよく言われました。  実はそういうことに対する興味は皆無でした。虫を描き始めたときなども子供の頃は昆虫採集少年だったでしょうと言われたこともありましたがそれもはずれ。別に嫌いではありませんでしたが、一般的な男の子程度だと思います。物心ついたときにはもうそんなにはまってはいませんでした。  描いちゃうのが先、後でだんだん興味がわいてくる。制作する前にはほとんど何も分かっていない。分かっていると思っていることは全くの勘違いかほとんど作品の役に立たない考えです。描いている間にだんだん目が覚めていき、ついてれば予想外に面白い展開になる。手が動かないと頭もお休み。  でも今では少しだけ昆虫に詳しくなって標本の美しさも知りました。  帰り道、キュラトリアル・ワークとサイトーユーキ・ワークをちょっと考えてみる。似ているところもあります。  前者ははっきり見える世界を区分けし、分かりやすくする。着地点も始めに決まっています。だから誰でも一目みれば分かります。世界を整理して分かりやすくするというのが売りでもあるわけですね。そういうすっきりさせる気持ち良さって確かに存在します。  後者は自分と収集物の間にある見えにくい世界の何かをそのまんまこっちに持ち帰ってくる。ということですねきっと。境界の掬い方によっては誰にも伝わらない。というか拾ってくるのはすべて「新種」なわけですから分類や線引き自体は見るほうに任せる部分が結構あります。文字にするとなんだかこちらは散らかしているみたいですね。  でも両方とも見る人を必要とし、見られてやっと完成するのでしょう。  

手に入れたり手放したり

 前回の展覧会で作品を購入していただいた方が額に対して特に希望があったので、新たに額屋さんに特注しました。それが出来たという連絡が来たので今日取りに行きました。  小林額縁という祐天寺駅から近い閑静なところです。頼むのは初めて。  小林さんは丁寧に相談にのってくれて、満足のいく仕上がりに作ってくれました。  驚いたことに自分の作品を知ってくれていました。以前の展覧会に出品していた、収集した鳥の羽や骨を描いた作品を高く評価してくれていたようです。  展覧会中にあまり反応が無くても、記憶に留めてくれている人もいるんですねえ。そういう人と活動を続けている中で巡り会えるというのは嬉しい。  その後おすすめされていた展覧会へ根津まで足を延ばしました。  リトルクリスマスで一緒に展覧会もしたことのある銅版の先輩作家、松本秀一さんのLIBREでの個展。  ご本人にお会いしたことはありませんが、実は作品は受験時代から気になっていて、図版をコピーしてよく部屋で眺めていました。  いいなと思って見ていた図版や、憧れの作家を自然と意識するという経験が、自分でも銅版をやってみたいという気持ちの根っこの一部を形成したことは間違いないのでしょう。    とても良い個展でした。意外にも30年くらい前の作品から近作まで出品されていて、じっくりと見せてもらいました。  良い作品は1点1点じっくり見てしまうので時間があっという間に経ちます。  なんと受験の頃、穴の開くほど眺めていた作品も見れました。想像していたより本物はずっと魅力的でした。    一口に銅版と言っても技法によってかなり表面の見え方は違います。松本さんはビュラン、エッチング、メゾチントなど色々な表現を使っていますが、どれも素晴らしい技術だと分かります。愛を込めて丁寧に作っている感じが伝わってきます。   独特の線に惹きつけられたビュランの作品に絞り、1点購入しました。  メゾチントの作品も喉から手が出そうでした。本当は5点くらい欲しかった・・・。    自分の経済状況を無視して他作家の作品を時々手に入れますが、本物が近くにあって思いついたらすぐに見れる、というのは展覧会へ行って見るというのとは違った良さがあります。身銭を切って買うとか自分の日常空間に飾ってみるというのは、作品を制作して展覧会をするだけでは分かりっこない感覚なのです。    今回は思いがけずに図版を見ていた過去の自分を思い出して受験から10年経ったんだな~と時の速度に驚いたりしました。  でも今度は本物を毎日見よう。
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春の置き去りと至宝のこころ

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 「入学式」というものが過ぎても桜が満開なんて久しぶりな気がしますね。   「生徒」や「学生」と呼ばれる人たちがガッコーへ行く季節。きっと新しい服を着て新しい環境で新しい人と会い、新しい日々を送るのでしょう。  この季節は大抵こころが落ち着きません。「みんな」に「置いて行かれる感じ」がします。誰がどこに置いていくわけでもないのですが・・・。桜の満開についていけずに取り残される感じがします。  ひとつひとつの個展を軽やかに乗り越えていけるのがかっこいい作家なのでしょうが、いちいち気合いを入れて、ぎりぎりまでああだこうだと制作を続けなくてはいけない現実の自分がいます。それだけやっても自分の展覧会は見るのが辛いことの方が多いのもまた現実。自らが思い描く理想の作品、展覧会にはほど遠い。やるほどその距離の果てしなさだけははっきりしてきます。少なくともそれが分かるだけ前進していると信じたいですが。  受験や卒業制作、修了制作といった区切りのような時に凄く良い作品を見せてくれる友人作家を見ると素直に凄いな~と感心します。それはとても難しいことのはずだからです。  「満点を取らなければいけない時」はある気がします。  その時は80点でも90点でもだめで、「満点」以外は意味がないのです。普段何点かもほとんど関係がない。    そのときの自分のベストを尽くしたのだからいいではないか。とはどうしても思えません。    失われた空間は時間と違って取り返せないからです。普段は逆に考えていますが、失われるのは目に見える空間、触れる物体、それにまつわる想いの方なのだと思うのです。「時間がない」ではなく時間はいくらでもあるのです。  この春は、個展の後にしなければならない細々したことをやりながら、季節の憂鬱と展覧会後の反動と個人的なことが重なり、時が凍りついたような2週間の中でそんなことを考えながら過ごしていました。    夕方急に思いついて東京国立博物館で開催されているボストン美術館 日本美術の至宝を見に行きました。  閉館近い、遅めの到着でしたが平日の割りに込んでいました。  最初の部屋からいきなり凄かった・・・。そしてその部屋が全部見た後もやっぱり良いと思いました。    これが質の高い美術作品というものだよと言われて頭をハンマーで叩かれたような衝撃でした。ああ見に来て良かった!と小さくガッツポーズ。図版で見て知っている絵も多かったものの、やはり本物の力は凄まじい。ボストン美術館が大切に保管していたことに納得、感謝。  部屋がぴんと張り詰めるような緊張感のある素晴らしい技術とそこから香ってくるような絵の「格」のようなもの。何も言葉がなくとも、奥深い思想を感じずにはいられないような圧倒的な説得力があります。  少し落ち着いてくると、当たり前のことですがこんな絵を描いた先人がいたのかということに気付きました。不思議なことですが、しばらくのあいだ自分と同じ「人間の仕事」とは思えなかったのです。一生に一点でもあんなものが作れれば作り手冥利に尽きるだろうな~などと思いました。  閉館ぎりぎりになって空くのを待ち、また最初の部屋に戻り、1点ずつ1対1で舐めるように見てきました。  素晴らしいものを見ると不安定なこころが少し落ち着きますね。また行こうかな。  ありがたや。    

花びらひらひら

 5つ町があったらその中の1つか2つの町には大抵あるような、無名な桜の並木通りがアトリエの近くにあります。満開でも誰が花見に来るわけでもないので静かなもの。そういうところを毎日通り抜けていると今日は2部咲き今日は5部咲きとただの通りも楽しみなものになります。
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 そんな道も今日は満開。こんな日は出かけなくては。いつもは20秒の並木道を200秒くらいかけて通り過ぎ、友人たちの展覧会へ。  一つめは渋谷のギャラリー・ルデコでのグループ展。最終日。高校生の時からの付き合いの高橋学説君が出品していました。彼は呼吸をキーワードに、独自の視点で変形させた動物などをモチーフしたタブローをアクリルで描きます。新作は今までになかったカタチが登場していました。作家がいるときは話すと色々聞けて面白いですよ。個展が楽しみです。  彼と奥さんと連れ立って二つめの展覧会へ。代々木上原にあるギャラリー上原での楯とおる君の個展へ。彼はこの画廊企画の展覧会で知り合いました。この個展は作家がギャラリーに3週間ほど滞在、もしくは通い、その場で展示だけでなく、公開制作やワークショップ、パーティーや寝泊りまでするというユニークなものです。楯君は外から見える大きなイーゼルに大きな作品を立てかけて制作中でした。横に来場者が魚を勝手に描くという企画の絵があったので学説君と自分が描きこんできました。彼は大きな蛸。自分は小さな骨の魚。リラックスした雰囲気で入りやすい感じの個展でした。詳細はこちらからhttp://www.galleryuehara.com/
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写真は蛸を描く学説君。周りの絵は楯君のです。  代々木公園の桜を眺めた後、帰りに一人で三つ目の展覧会へ西荻窪に足を延ばしました。  SAWYER CAFEでの個展。http://sawyer.nishiogi.biz/  このカフェでも展覧会をやらせてもらったことがあります。朝までやっているカフェなのでのんびりでも安心。都心で終電を逃すと朝までお世話になったりすることもあります。レコードいっぱいで綺麗な店内です、ここで聴いて購入したCDもあり。粋なマスターと手料理が美味しいcomyさんがいらっしゃいます。つい長居してしまう場所です。展覧会も良かった。妃香利さんはギャラリー上原で知り合いました。油彩水彩パステルと素材は違えど自然光を感じる温かみのある絵を描いていました。小さなパステルの作品が特に惹きつけられる感じがしました。  どこへ行っても桜が目に入り、また花見人がいた1日でした。  舞う花びらのごとくひらひらと(ふらふらと?)展覧会場を渡り歩いて帰宅。  展覧会をはしごしていると作品が人や場所を繋いでくれるのだなあとつくづく思います。目には見えない豊かな広がりがいつの間にかある、というそんな輪のようなものを感じます。可動性の輪です。

一足先の個展

 久しぶりに銀座へ。  養清堂画廊で開催中の鎌田有紀君の個展に行きました。  彼とは以前この画廊を通じて知り合いました。2人展を企画してもらったのですが面識はなく、名前からお互いが相手を女性と思い込んで搬入時に笑い話になりました。  彼は有機的なかたちが画面全体に漂う作品をリトグラフで刷っています。  イメージが限定されていないために見る人によって様々なかたちに見えます。具体的に描いたような作品があったので尋ねてみると、作者は全く気付いていなかったという。こちらにはあんなにはっきり見えるようなのに面白い。  同じものを見ているようでも見ているポイントは違うんですね。  縁があった同年代の人がその画廊で一足先に個展をやっていると自分にも刺激になります。
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