2羽の烏の話

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 怠け者が後になって罰を受けたり、苦労したり、死んでしまったりと泣きを見る昔話はよくありますが、怠け者がうまくいく話もあります。  皆んながせっせと働く中、ごろごろしてばかりの男。ある日も木の下で寝転んでいたところ、上の方から2羽の烏が話しているのを耳にします。(非日常へと導く役割は鳥類が多いですね。)それをきっかけにして、男は奮起し、大金持ちになって幸せに暮らした、  とさ。  この話を聞いたときに、作家にもあてはまるなと思いました。男は、他の人から見れば働かず、好きな時にごろごろしている怠け者に映ることでしょう。だからこそ、烏の話が聞けたのではないでしょうか。「烏の話を耳にして~・・・」などとさらっと語られるので、つい読み飛ばしそうになるのですが、通常の状態では、烏の話し声は、人間には聞き取れません。  「2羽の烏の話し声」とは一体何でしょう。そして怠け者以外の人には、何故烏の声が届かないのでしょう。男が幸運だっただけなのでしょうか。  もうひとつ大事なのは、その声を聞いた直後、男はついに自ら動くというところです。耳にした何かを現実と擦り合わせる工夫がそこには確かにあります。  ・・・昔話の怠け者からは学ぶことが案外多いかもしれません。    障子には影絵、開ければ猫。あけたてしながら毎日制作。
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発火

 腐食する銅版画には防食膜、いわゆるグランドと呼ばれるものがあります。時々自宅で作ります。と言っても松脂とアスファルトを固めたものを購入して、それをリグロインで濃度を調整しながら希釈してグランド溶液を作るだけ。こうすると銅版の板の上に流し引き出来るようになるわけですが、リグロインはとても揮発性の高い溶剤で、注意が必要です。  慣れは怖いもので、少しいつもより多めのリグロインを口の広い鍋で湯煎していた際にぼわっとにわかに発火し炎を頭に被ってしまいました。銅版をやり始めてからこんな失敗は初めて。狭いアトリエで極度に緊張したせいかゆっくりと景色が流れる感覚でリグロインだから放っておいても消えないな、水もだめと考える。火災報知器が鳴り、天井に届きそうに燃え上がる炎めがけて消化器。訓練以外でこれを使う時が来るとは・・・。部屋中に消化器の粉が舞いました。
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 少し冷静になると頭が臭い。鏡で確認すると髪の毛が燃え、ぼろぼろと灰になって落ちてきていました。残った髪の毛も白く、乾麺のようにちりちり。仕方なくそのまま美容院へ。焦げた髪を切り揃えて帰宅。なんだか疲れましたが、溶剤の扱いには注意しなければと気が引き締まりました。  ・・・消化器の粉掃除が待っています。
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没作業

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 アトリエの簾に巻き付く蔦は水も栄養もやらなくてもいつのまにやら伸び、去年よりも上手く絡まってくれました。ちょっとした楽しみ。    先日書いた版画集「seed leaves」と今年のリトルクリスマスの整理、梱包、発送作業に参加作家のお宅へお邪魔しています。今年は鹿沼の市立美術館の参加も決まり、そこに合わせて少し早めの発送。  参加する作家も発送する画廊も多い為、作品を手放して画廊にお渡しするまで何日もかかっての作業ですが、ずっと1人の作家のお宅を借りているので少しでも早めにとみんなで手分けして通います。  参加作家のやる気とわずかな諸経費だけでほとんどゼロからのスタート。誰かがお金をもらって整理していたり、事務局があるわけではない展覧会なので、その年毎に参加作家の中での100%のボランティアによって支えられている奇跡的な集まりです。版画の種まきを全国のみなさんへ、画廊に繋がりの薄い若手作家にチャンスを、という先輩作家の熱い思いには感謝してもしきれませんが、返すよりも次へと繋げていこうと密かに思います。  一点一点作家の新作を見ながらの仕事、やはり面白い。作家も画廊も入れ替わりますが、皆さん全国に出したものが沢山戻ってくるのはがっくりくるので気合いの入った作品が揃うのは毎度のこと。
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 もう一つの面白さは作業で借りている筆塚稔尚さんのお宅。今年も彼のフィルターにひっかかった色んな小物が増えて、リビングは更にジャングル化。北アメリカはカラスが流行りという愉快な情報を知る。  そして昼は参加作家の松本さんから送っていただいた松本さん作の米を囲んでランチ。美味。
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 作家同士支えながら転がす展覧会への作業は大変ですが、悲壮感はありません。ついつい先輩作家にも遠慮なく色んな意見をぶつけて時があっという間に過ぎる。そういうのも含めての共同作業はもはや「作業」とは感じません。やらなければいけない大変さはあるのですが、やはりそれ以外の部分がそれを忘れさせるからこそまたやるか、と思うのかもしれません。

流木メッセージ

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 掌に収まるくらいの流木が集まってきたので、マグネットにしました。古代の文字みたい。    積んであったり、部屋に点在していたものたちを並べて固定するのは自分の興味のカタログを作る様です。全体を俯瞰する視点がひとつ増えました。  また気分によって動かせるというのもマグネットの利点です。  「良い」をシャッフルしているうちに別の「良い」に気づいたりすることもあり、この類の流木の把握の仕方が自分の意識の中で組み変わるのを感じます。  なんとなく眺めていると、やはり収集した時期が早いのは少し甘い気もしますがやっぱり捨てきれない良さもあります。何故か引っかかる、というのは案外馬鹿に出来ません。そして最近はなかなかトキメキを感じさせてくれる流木に出会うのが困難になってきました。     しかしこうしてフォーマットが整うと、まだ見ぬ形や質や色をはめ込みたくなってきますね。  「衝動」と「型」は互いに響き合って歩を進めるようです。

折れても流れても

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 雪の日にのしかかっていたのを払い落とした際に折った沈丁花の枝が、室内に置いておいたせいか庭より一足早く咲きました。控え目な球状の細かな花も、葉ばかりの冬場の観葉植物の中では華やか。強い香りがアトリエに充満しています。
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   相模湾で収集してきた海藻がへばりついた瓶を1日干すとすっかり縮んで乾燥ワカメ。短くなった鉛筆の置き場に。陸で折られて環境が突然変わっても、海で流れて来た瓶にくっ付いて生きる事になっても、知らん顔で生き方いろいろ。  石圧笋斜出 岸懸花倒生  タケノコは石があれば斜めに生え、岸壁の花は逆さまでも咲く。  予定通りまっすぐ、ではない育ち方も美しい。

初雪後の運動

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 真白な半紙にチョンチョンと墨で描いたタッチの様な早朝の葱畑。雪がのしかかってひしゃげたネットと骨格の有様も見てるだけなら風情があります。  通行人の迷惑を一顧だにせずに雪景色を十分鑑賞したので、暖かくなってくるのを見計らって今日は昼過ぎからアトリエ前の既にアイスバーンと化しつつある雪を夕方近くまでさらいました。  鑑賞の日々の代償にカチカチになったそれは雪掻きシャベルではほとんど削れないので、まず普通の鉄のシャベルで砕き、その後雪掻きシャベルで掬って一箇所に放り投げていく。繰り返してるうちに温まった血が血管を伝って身体中を巡ってきます。雪の中Tシャツ2枚で気持ち良く汗をかきました。日常生活以上の運動もたまにはやった方がいいようです。  1時間過ぎると腕と手がだるくなってきたけれど、気分がのってきたのでシャベルを置かずに身体の他の部分に頼りながら続行。放る時は腰ではなく膝の反動。シャベルを押す手と蹴っていた足の裏が痺れてきたのをカバーするため、交互に使いながら身体を捻じって自重を利用。色んな方向から突き刺していきます。シャベルを入れる瞬間だけ力を込め、その後は体重を傾けると、力を抜いても勝手にズリズリ進む。進んだ先で止めずにそのままの力の流れで放る。シャベルに体重をかけるタイミングと割合がポイントのよう。なるべく疲れないように工夫したつもりの変な動きが止まらずくるくると踊るよう。
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 最後に庭の木々に積もっていた雪もばさばさと落とし、折れていた沈丁花の枝を剣山に刺して一息つきました。  亀形の剣山の中央に樹。昔の人が想像した宇宙みたい。    早春まで枯れなければ、淡紅色の花の香りがアトリエに季節を告げてくれるはずです。
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雪の中のアトリエ

 初雪。
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 出掛けなければいけない用には迫られていなかったので、おとなしくアトリエに引き籠もり制作横目に窓の外を眺めて過ごしました。どうしてもという時以外は予定を当日変えられるのは有難い境遇です。    個展中に、たまたまお客さんに教えて貰った世田谷ボロ市へ行きお気に入りに加わったものたちを並べてみました。
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 焼印、火鉢の灰掻き、蕎麦猪口。  来る日も来る日も押してきたぞと言わんばかりの欠けた焼印の迫力に一目惚れ。後日銅製は割りと珍しいと、焼印を収集している知り合いに教えてもらいました。銅特有の緑青が生えて綺麗。  灰掻きは様々な形状、色、質があり沢山欲しかったけれど1本に絞りました。刷毛の様な形。気に入るといくつもバリエーションが欲しくなる気持ちを抑えるのに一苦労。  明治時代のだという蕎麦猪口は気の抜けた焼成と雑な印刷。おそらく出来立てはなんてことない大量生産品、そこに古色が滲んでちょっと面白くなった、といった感じの化けた味わい、一応水は漏れないのでこれが唯一「使えるモノ」。    コーヒーの湯気が雪景色の映る窓をぼんやり曇らせます。  
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 骨董品が特に好きというわけではありませんが、時間をその内に取り込んだ表情は他に代え難い魅力を発することは間違いない。  幼少時代祖母と過ごす時間が長かったせいか、物心ついた頃にはその辺りのモノに惹かれ両親が捨てようとする箪笥などを死守してきた子供でしたが、これは三つ子の魂のよう。  時が経ち元の様子から距離ができたモノの魅力や、意味や用途が失われた断片が獲得した存在感を備えたモノ。言わば彼らは物言わぬ師匠です。  ああいうものの豊かさを新しく生み出すことの憧れが頭の片隅を埋めています。

冬の朝夕

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 「SpaceSpecimens」の試し刷り何種類かを刷った後、今朝エディションにするのを決めて刷り始めました。およそA3サイズの用紙60枚。年末に行っているリトルクリスマス版画展でもA4を60枚なので、この大きさをまとめてそれだけ刷るのは考えてみると初めてかもしれないことに気づきました。もっと小さいの数百枚やもっと大きいの30枚や、累計でとかなら経験がありますが。  刷りも乾燥も手間がかかりそうなので仕上がりを変えずに動きに無駄がないようにしなければ。久しぶりに自作ゴムベラのエッジをカットしてシャープにしました。ゴムの板を木片で挟んだ簡易的な作りですが、市販のものよりもインクの切れが抜群。セッティングを整えて、図書館でチャーリー・パーカーのCDを借りてきました。アトリエがカフェになったよう。
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 夕方散歩道の林の枝がむき出しで、遠くから眺めているとまるでブラシ。  シルエットが丁度格好良い夕まぐれの時間帯は短く、天気とタイミングがぴたりといくと気分がいい、冬の道を歩く楽しみ。

秋のアトリエの1日

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 今日刷った銅版、裏返して水張り乾燥中。  刷っている間は基本的に同じ動作の繰り返しですが、刷り上がりの様子を確認しつつちょこちょこ微調整しています。段々乗ってくると没頭し始め、刷るためだけの身体になります。何かが降りた様に意識がぼんやりしてホイホイという感じの動きのリズムの良さに比例して刷りのスピードも質も安定します。あの状態に入るまでの周りの環境固めが大事と思います。  刷ったものを並べて眺めていると、はっきりした量としてその日の自分がやった仕事を見返せるわけですが、果たしてそれ以外の日はこれと同等の仕事をしているのだろうか、と思ったりします。  調子のいい刷りの日の没頭レベルが他の時にも増えればもっといい仕事が出来そうなのですが…煩悩が歩みを鈍らせているよう。    ところで秋のアトリエの楽しみのひとつはアイスからホットへの移行です。コーヒーの話。水出しを片付け、ネルドリッパー降臨、お久しぶり。  お湯を滴下するとぽたこぽぷすぷすと豆が鳴る。それが膨らむのをじっと見ているとふわっと香りが立つ。なんとも言えず嬉しい。カップから柔らかく伝わる温度にほっとしながら舌へ。ただ淹れて飲むだけでも毎日自分でやらないと気が済まない理由は、五感全部が休まるからかもしれません。  焙煎したての新しい豆は文句なし、やはり新鮮さ第一ですね。肌寒いこれからの季節のアトリエはコーヒータイムが余計楽しみになります。  
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 人生は時にはコーヒー一杯の温かさの問題。というのも分かる気もしてきます。いい秋の寒さです。

アトリエの蔓

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 夏場に繁茂した蔓がアトリエの軒先まで上がり、簾に手を付け始めたなと眺めていたらぐんぐん伸びて最近は簾を覆う勢い。  スピードが目に見えるようで何も手を付けなくても日々育っていくのを制作をしつつ楽しめてちょっと贅沢な部屋になりました。    唐草文様はギリシャ、メソポタミア、エジプト辺りから各地へ広まり、シルクロードを通って中国から日本へ。ギリシャでは柱に刻まれ、イスラムではアラベスク、中国では仏教と結びついて、日本へ入るとさらに簡略化されましたが長く歴史上愛されてきた文様。  時代や地域の特色、思想などが付されてもなおそれを超えた普遍的な魅力が人の心に寄り添うのかもしれません。簾に落とす葉の影を室内から見ていると、これを文様にして残したいと思った人々の気持ちも理解できるような気がしてきます。  日本の泥棒の間ではメジャーなあのシンプル唐草文様も嫌いではありませんが、個人的には蔓の巻き方が強すぎるというか、やや品に欠けるような気もします。泥棒をはじめ庶民的なイメージが垢のようにこびり付き過ぎたせいでしょうか。時々蔓の文様で古今東西を超えてハッとするようなものに出会う時もあり、僅かな変化によって表情が結構変わるのが面白いですね。風に揺れ、張ったり縮んだりする蔓植物そのものを見るようです。  試しに伸びて欲しい方向に蔓を動かしてみたら次の日そこだけ枯れました・・・。野生の呼吸は難しい。
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真夏の夜の棚

 銅版を中心に制作するようになってからやたら筒が増えました。  まず以前も書いた雁皮紙。これは大抵メーター売りで折り目がつかないようにくるくる、色んな色や大きさで何本もあります。それから作品輸送のための丈夫な筒。刷る紙を湿すためのビニールも皺を伸ばす手間を省くために巻いておきます。さらには銅版の裏に腐食を止める為に貼るシートも筒。  ころころとアトリエで邪魔だったので棚を作りました。
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 押入れを改造。ついでに道具の棚も付けといた。すっきりして気持ちいいです。  こういう改造は制作現場がより自分の空間になっていくようで愛着が湧きます。  「昨日君に作ってもらった棚さ、あれ落ちちゃったよ。」  「え、そんなはずないんだけど・・・。」  「そんなはずないって確かに落ちちゃったもの。」  「おかしいなあ・・・・・・何か乗せやしなかったかい?」    という小噺が頭に浮かびましたが、落ちませんように。

暑中エディションⅡ

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 アトリエに熱気が充満しています。去年から愛用しているサーキュレーター無しではいられませんが風を当てているだけで結構我慢できます。  さて昨日の続き。60部刷りとはいえA.P.(作家用の刷り)やH.C.(贈呈用の刷り)などのことも考えてそれより15部くらい多めに刷ります。1枚ずつ手仕事なのでどうしても刷り損じや微妙な差が出てきてしまうので、乾燥後あまりに違う刷りをはじく前提で多めに刷るのです。勿論60部以上エディションに加えることは絶対にせず、最終的にボツになったものは破棄します。全部刷り終えて今のところ拭き上げ失敗1枚、雁皮ずれ1枚、計2枚失敗。う~ん未熟。さらにむらのあるものをはじけばまあまあかと思います。  版は結局作者が気に入っていないと最後まで刷るのが辛い。エディションを想像して本当にこれで最後まで刷れるか、と制作途中で自問自答したりします。今回はなんとか気持ちがもちました。  版画を始めたばかりの頃に版画のエディションについて、同じ作品をそんなに刷ったりなんかとてもじゃないけれどやってられない、同じ動作の繰り返しなんて息が詰まるし、はっきり言ってまったく芸術とは無関係だと思い込んでいました。  その意識に変化があった決定的な出来事は先輩作家の刷りを手伝ったというか、手伝わせてもらった数週間の経験です。  版画芸術という雑誌の付録版画の企画だったのですが、6000枚という大量のエディションを刷る手のひとつとしてアトリエに通いました。大体毎日60~100枚くらい刷り続ける。その作家は道具や環境を刷りやすいようしっかりと揃え、刷る動きの流れに無駄が無いよう考え、刷りの微妙な変化に対応して、紙の湿し具合やインクの硬さ、拭き上げ方、プレス機の圧の微調整を常に行っていました。それを間近で見られたことは色々な工夫を学べたという何にも代えがたい財産になっています。本では学べないこと。さらにそれを何日も繰り返していると、版とインクとプレスの関わり合いが自分の身体を通し呼吸するように馴染んできます。版の具合を見ながら刷り方も微調整する、刷る時も絵を描いているような感覚です。途中で「この版は、僕が作ったけれどもう齋藤君にしか刷れない。」と作者に言われました。版に対し愛着が湧き、ああ、こうなりたいんだな、お前の気持ちは分かっているよという感覚になり(プリンターズ・ハイ?)、最後まで刷るのが嫌だとは思いませんでした。そしてそれ以上刷れなくなって版が潰れる瞬間を体験した時はああ、本当にお別れだと思い、達成感とともにちょっとした感傷もあったくらいです。  そのお陰で随分タフになりました。ありがたいことです。     

部屋に吹く風

 寒くも暑くもなく、ちょうどいい湿度。日中部屋の窓を開け放って制作をします。  梅雨に入る前、部屋を吹き抜ける風が心地いい季節です。紅白の薔薇が道にこぼれるほど毎日咲きます。
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 なるべく窓は開けておきたい、外と中が繋がっている状態の方がなんとなく心が落ち着きます。締め切った部屋に長時間は辛いけれど常に窓全開というのは現実的に難しいので、音楽やコーヒーで密室をごまかすことになります。以前いたアトリエはドアも開けていたのでよく猫が入室して勝手にくつろいでいました。  風の入る窓の近くに一人で座ってぼうとしながらコーヒーのつまみに外の景色や画集を眺めたりするのを楽しみにしながら制作をします。まあ大抵普段からぼうとしているのですが・・・。出かけない時はだいたい毎日同じような日々。  制作は作者の中では浮き沈みがありますが、傍から見ていたらぼうとしているかごろごろしているか思いついたようにずうっと描いているかほとんど気まぐれに遊んでいるように見えるかも知れませんね。    メキシコで本を出版したという哲学者の方と今日お話しましたが、哲学者は自分の学びたいことのために嫌なことも一生懸命勉強して糧にするけれど、作家は好きなことを野生的に探りものをつくると指摘されました。  やっている側からするとまあそういう作家ばかりではないだろうと思いますが、「やっていて気持ちがいい」がものをつくる上で占めている割合も侮れないのではないかという実感はあります。(仕上がりや見た目が心地いいとかいう話とは別です。行為そのものについてです。)  しかも経験から言うとそれが本当に一線を越えた「気持ちいい」になると作品が結果的に生き生きするようなものになっていったという気もします。あまり自分が乗っていないと作品にもそれが出てしまう。怖くもあり、愉快でもあります。 

作品のふるさと

 作品よりもその作家の周囲の生活や制作をするアトリエなどに惹かれることがあるんですね。  ムーアはドローイングで好きな作品が少しあるくらいで実は彫刻1点での魅力はまだあまりよく分からなかったのですが、下の安斉重男さんの写真を見てしびれた。こんなにかっこいいスタジオはそうそう目に出来るものではありません。こういう場所で制作していたとはまったく知らなかった。  
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   微妙なグレートーンで椅子や棚の色も計算されているような空間は美しい。何より小さい作品たちがきらきらして見えます。これは大きな野外彫刻では感じられなかった驚きです。作者のバックボーンを垣間見た気がします。  作ったものを順番に棚に並べたというよりも、ひとつ作っては「次はこの隣にこんな大きさでこういうカタチのヤツをあんな色で・・・」と子供のように楽しんで置いていったみたい。こういう想像はまったくの見当はずれかもしれないけれどそういう風に見えてしまいますね。  スタジオ以外の部屋の写真も目にしましたが、そちらは作者のものではない不思議なオブジェや骨董の類、おそらく拾ったもの、などなどが所狭しと並べられているものでした。その隙間にひっそり置かれているような自作の彫刻。ああ自分と近い感覚を持って生活をしていた先輩作家がいたのだと先を越されたような嬉しいような気分になりました。  お気に入りの収集物の間に「欲しい、置きたいカタチ」と思うものがあるのだけれど手に入らないので仕方なく彫刻をして自分で作っていたんじゃないか。きっとこういうかけらに囲まれた環境、空間が好きだからそれを探す、もしくは作っちゃうというタイプの人だったのでしょう。  オキーフもニューメキシコの砂漠で骨を拾ってはキャンバスに描くという制作をしていましたね。作品も素敵ですが、それに負けずとも劣らない骨を片手にうろついているおばあちゃまの写真がクールです。  骨だらけの彼女の小屋も怪しいけれど、ちょっと作者を想像すると、これをわざわざ探し回って拾い集め、持ち帰ってきたのか~とくすりと笑えてほっとします。    整理されよそ行きの服を着せられて都会に出てきた作品君の育ったふるさとというか、実際の制作が始まるの1歩手前の制作を育む環境そのもの。  そんな写真から作者のこだわりがちょっとだけ見える気がします。  

作品たちの舞台裏

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 アトリエも寒さが緩み換気するのも楽になってきました。額装梱包積み込みで、作品だらけだった部屋もがらんとします。  今日は個展の搬入作業。  夕方から銀座の養清堂画廊へ。この画廊の展覧会をいくつも見てきましたが、自分の個展が決まってからは他の作家がどう空間を使って見せているのかがなんとなく気になるようになりました。  作品そのものの良さが十分に伝わってくる見せ方、空間自体が作品によってより良くなっているという2つのことがどちらも大事で、それが成功していると良いなあと感じる、という意識が以前よりはたらくようになりました。  画廊の見取り図を描いて、作品を並べるパターンをいくつか考えてこれがいいだろうと決めて向かいましたが、結局並べて見るとイメージしていた感じとは違って長考。  画廊の人と相談しながらあれこれ作品を動かすことに。空間に作品で絵を描いているみたい。  予定の搬入時間オーバーで当初の予定とはかなり違う仕上がりになりました。  出来上がってみるとまるで最初から決まっていたような感じがするから不思議。並んだ作品を眺めながら自分の作品だけを広い空間に並べられるというのは贅沢なことだなとしみじみ思います。  そして画廊の方のアドバイスは大切だと実感。流石見せるプロです。 「毎週この空間がまったく違うふうに変わるのが楽しみなのです。」とおっしゃっていましたが、まさにその「目」は制作をするのに夢中で、それを活かす空間までなかなか頭が回らない自分のような作家にはありがたいです。  勿論作品の内容が変化するわけではなく、そのものの良し悪しは作家の責任です。あとはリアクションを受けるだけ。楽しんでもらえるといいのですが。  月曜から自分にとっては最高の贅沢と一緒に反省の日々が始まります。

「観測」

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 個展のお知らせです。「観測」というのはこの展覧会の名前です。画像は以前ここにも書いた、今回の一番大きな銅版作品です。  26~31日で銀座の養清堂画廊。40点くらい。火曜以外は会場にいる予定です。  搬入するまで先のことは考えられませんが、3月は個展とともに気付いたら終わっていそう。その頃にはすっかり暖かくなっているのでしょうね。  以下詳細画像。
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 朝から晩までアトリエに缶詰。知り合いの作家は「僕は誰とも会いたくない期間がある。その時は明るいひきこもりになるんだ。」と表現していましたがこういうことなのかな。  作家活動はひたすら一人で作っていて、あ、今日一言も声を発していないやと気付く日もありますし、展覧会になると入れ替わりで来てくれる人とコミュニケーションをするのでその穴を埋めるほど話すのですが、その落差が自分は好きなことに最近気付きました。ひとりもたくさんもそれなりに良さがあります。  今月号の月刊美術という雑誌に1点だけ出品作品が載っています。誌上販売だそうです。見かけたら(小規模な本屋では多分ないです)手に取ってみてください。これもコミュニケーションの場のひとつですね。    よろしくお願いします。

雪解け

 雪解け水が落ちて跳ねる音で起床。  朝からぴちょんぴちょん。  今度の雪は一気にどさどさと降り、今日はうって変わって快晴。庭の小さな梅が蕾をつけました。
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 さて家の周りを掃いたりかいたりがどうにもあまり気が進みません。  雪かきしてすっきりする気持ちよりも眺めていたいそれが強いのです。  雪に限ったことではありません。  花びらが舞い散っていると気分が高揚しますし、落ち葉が道をこんもりと埋めると妙に落ち着きます。色どりもいい。  そしてなんと言っても冬のストリートの主役は雪。朝積もっているのを見た時のあの爽快感。  日常が劇的にお色直しをする様は下手なアートインスタレーションを鑑賞するよりよほど迫力を感じます。勿論見飽きる程雪と付き合っている地方の人は別。  だからどうするわけでもないのですが、せっかく散ったり積もったりしてるのに惜しいと思ってしまいます。それがいいのに。  落ち葉をゴミだと確信して疑わない人がいるのを知った時はなかなかの衝撃を受けました。  このあたりの話をして、ああ分かる分かる!っていう人はいるのか分かりませんが。  あまりやらないと近所に白い目で見られますし、家族にも頼まれるので我を貫きはせずにしばしば掃いたりしますが、雪はほら解けるしさ…という免罪符で逃げます。最後の抵抗。  住宅街で生きるという現実に直面する毎日です。

新鮮な耳

 作業中にいろんな曲をシャッフルで流して聴きます。  集中して耳に入れるわけではなく、カフェなどと同じただのBGM。順番や曲調などにまったく統一感もこだわりもありません。その方が意外性があっていいようです。シャッフルにすら飽きると、CDを1枚選んで聴いたりもしますが。  ところがそれでも飽きてきます。最初の音が耳に入った瞬間に頭が先取りして曲を流すようになってくるとやはりつまらない。アトリエの音に飽きの限界が来た感じだったので中古CDをあさりに出かけました。  何人か以前から聴きたかった人と、知り合いがおすすめしていたもの、あとはジャケ買い。  狙っていたもの全部はありませんでしたが5~6枚購入。1枚¥50~¥1500くらい。いったいどういうふうに値段は決まるのだろう。全然知らなくても高いものもあるし、有名でも安かったり。中古の不思議。  ともあれこれでシャッフルにバリエーションが増えます。嬉しい。
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 JUANA MOLINAは偶然どこかで1曲気になる音が耳に入ったところから名前を知ってアルバムを知りました。期待通りやはりいい。今までアトリエになかった音。またアルバム探してみよう。
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 これはなんとなく手に取って一緒に帰ってきましたが意外と聴いてます。全く知らない。何なんだろう。どこか遠いところからの音楽みたい。  

だいくさんといっしょ

 アトリエの雨戸を開けて、朝日が射し込む時間になると大工さん達も作業を始めるところ。  隣に続いて向かいも工事が始まりました。家の断面図が剥き出しになるのを見ていると子供の遊ぶドールハウスのよう。だいたい同じ時刻にこちらも制作を始めます。  ガタガタと続いていた音やかけ声がぱたりと止まると昼休み。こちらも昼食。  1時間ほどのんびりしてお互い作業再開。  暗くなってきて、雨戸を閉めた後もしばらく外から音は聞こえてきます。    しんとなってもこちらはなかなかふんぎりがつかず、終われません。  真っ暗な外に出てさて帰ろうとすると、ライトの中まだ作業をしている人がいました。  お先です、と口には出しませんが勝手にそう思いながら帰ります。    最近の1日です。
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プレス機の旅

 床下の話ついでにプレス機を運んだ時のこと。  1人では出来ないのでプロと友人1人とともにおひっこし作業。
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手動のクレーン(?)状のもので持ち上げて分解。
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天日干ししているよう。  重いのでばらばらにして運びます。  ばらしトラックに載せ運び組み上げ調整。1日がかりの作業でした。  制作をする以前の場所づくりは時間や労力はかかりますが、現場にいると運ぶ人の生の声や工夫、知らなかったことを目の当たりにしてなんだか得した気分です。

縁の下の話

 以前のことですが和室を作り変えました。床下です。  銅版を刷るためのプレス機が1トン以上あるので木造では置けないのです。  個人的には和室が好みですが、可愛いプレス機のためにぐっと我慢。 自分の制作する場所の真下がどうなるのかという興味と、今後の参考のため見学しながら写真も撮らせてもらいました。あまりまともな写真が見つからなかったですが・・・。
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 板一枚はがされただけで、あ、大地が近いと思いました。  工事はとても親切丁寧にやっていただき、作業が格好いいなあと思って眺めていました。  今も集中してプレス機が回せるのも縁の下のお陰です。  忘れないよう書いておきます。  日頃忘れそうになるほど意識させないのが立派な縁の下ということなんですね。