暑中お見舞い

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 暑中お見舞い申し上げます。  濡らして振るとヒンヤリするタオルを首に巻いて制作してます。

材木流木考

 浜辺へ。眼鏡をすり抜けて、眼球に滑り込んでくるような砂混じりの強風を、かき分けながら進むと流木の墓場のような開けた場所。誰もいない。ここは秘密の場所にしよう。
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 ところでこの砂浜、本当に流木しかないのかというほど他のものがない。そういう浜辺なのかそういう日なのか。それはそれで潔いけれど、少し不気味。
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 材木が漂流し、自然に侵食されているものに惹かれます。一方、漂流してきた流木に対して、燃やす、折る、磨く、などの他者が後から手を加えたものと浜辺で出会っても、自分の収集の対象には全くなりません。流木カービングまでいくと、それは作品として鑑賞出来るけれど、それとはまた別の話として。  「自然と人間の関わりから生じた存在」という部分は共通点があるのだが、この違いは何なのだろう。  前者は材木として成型された際に漂流することを想定していない分、当初の目的、ひいては人間の思考や思想からの自由さがある。無作為によって美に至っている。波と砂と太陽の偉大さを思い知らされます。後者はそもそものそういう大きな大きな自然に対して、ある作為を加えて、今の状態に貶めた、という不自由さに冷めてしまうのです。枠を不用意に狭めることのつまらなさ、と言い換えてもいいかもしれません。  翻って、自然と人間の作為を人間の表現行為に当てはめて考えるとどうでしょうか。そりゃあ自然の方がいいだろうということはもう間違いないと思うわけなのですが、そもそも自然の中で出会ったものは表現なのでしょうか。これらは同じ土俵で語ることが出来ないような気がしています。自然の中で美を目の当たりにしたとしても、「自然の方がいいだろう、というそのこと自体の感じ方」を表現するということは常に残されています。自然は何も感じませんし、考えません。だからこそ恐ろしく、また美しいのですが。  そんなに簡単に、自然がいいのだから何もしなくていいではないか、とはならないところに作家の仕事があると信じたいと思いつつ、流木で重たくなったカバンを背負って帰路に着きました。

風に吹かれて

 浜乞食。  ほんの少し暖かい日が続いたせいか、浜辺には同じような事をしている人が大勢いました。
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   黙々と歩くだけでも相当満足度は高いのですが、気になるものが時々あってそれが拾えるというのもやはり大きな魅力です。アンテナ立てて瞬発力で拾う。クロッキーしている脳と似た処を使っていないかと思う。少し違う気もする。不思議な領域です。
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 今回はこんな感じ。小型の流木でいいのが多かった。人が加工したものがまた半分くらい自然に侵食されたようなものはそれだけで強い存在感があります。陶片。それぞれ角があったり丸かったり、元の模様が残っていながら消えかけているその状態が美しい。  何年にも渡り浜乞食活動を続けていますが、何に惹かれ、それが自分にとってどういう魅力として感じられているのかという事が以前より強く意識されてきているのを感じます。  
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トンビが風に吹かれていた。

流木メッセージ

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 掌に収まるくらいの流木が集まってきたので、マグネットにしました。古代の文字みたい。    積んであったり、部屋に点在していたものたちを並べて固定するのは自分の興味のカタログを作る様です。全体を俯瞰する視点がひとつ増えました。  また気分によって動かせるというのもマグネットの利点です。  「良い」をシャッフルしているうちに別の「良い」に気づいたりすることもあり、この類の流木の把握の仕方が自分の意識の中で組み変わるのを感じます。  なんとなく眺めていると、やはり収集した時期が早いのは少し甘い気もしますがやっぱり捨てきれない良さもあります。何故か引っかかる、というのは案外馬鹿に出来ません。そして最近はなかなかトキメキを感じさせてくれる流木に出会うのが困難になってきました。     しかしこうしてフォーマットが整うと、まだ見ぬ形や質や色をはめ込みたくなってきますね。  「衝動」と「型」は互いに響き合って歩を進めるようです。

折れても流れても

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 雪の日にのしかかっていたのを払い落とした際に折った沈丁花の枝が、室内に置いておいたせいか庭より一足早く咲きました。控え目な球状の細かな花も、葉ばかりの冬場の観葉植物の中では華やか。強い香りがアトリエに充満しています。
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   相模湾で収集してきた海藻がへばりついた瓶を1日干すとすっかり縮んで乾燥ワカメ。短くなった鉛筆の置き場に。陸で折られて環境が突然変わっても、海で流れて来た瓶にくっ付いて生きる事になっても、知らん顔で生き方いろいろ。  石圧笋斜出 岸懸花倒生  タケノコは石があれば斜めに生え、岸壁の花は逆さまでも咲く。  予定通りまっすぐ、ではない育ち方も美しい。

蟹の置き土産

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 梅雨も明けてまた暑くなってきました。  収集してビニール袋に放置していた魚の死骸の整理をしました。流石夏と言えましょう。ほとんど肉は腐り、蛆が元気に食べてくれていたので軽く水を流しつつ手で解すだけで肉がするすると骨を残して流れていきます。カッターもピンセットもお湯もたんぱく質除去剤もいらない。こんなに楽で無理のない骨取りはそうはありません。魚は一度ばらしてしまうと再び組み上げるのに時間がかかるので、そうならないように丁度良いタイミングを計っていたのです。失敗を繰り返すうちに肉は取りやすく、骨まではばらばらにはならない加減というか、肉や骨や筋の関係とその腐り具合の呼吸のようなものをほんの少しですが感じるようになってきました。今回は肋骨の角度がカッコイイという理由で収集したのでそちらが残っていればまあOK。  取った肉の臭いにすぐに釣られてやって来る新たな蝿。その感知能力たるや生物一ではないでしょうか。感動するほどの速度。自然の食は速攻。一体今までどこに隠れていたのかと毎回驚きます。蓄えることを手にした人間が代わりに手放した鋭敏な嗅覚。  蟹ははっきりと全身欠けることなく死んでいたので収集。近くに片腕の小さい蟹もいたけれど何気なく大きいやつを持ち帰りました。洗っていた時に、小さい蟹のハサミを引きちぎって自分のハサミに抱え込んでいたことに気づきました。その時ふとこの大きい蟹はどのように絶命したのだろうかと疑問に思いました。どうみても小さい蟹を圧倒し捕食していたように見えたのだけれどこちらも死んでいた。相打ち?相手に毒があって食べながら死んだ?そんなことあるのだろうか。鳥などの第3者が介入していたのであればどちらの蟹も大した外傷もないままその場に残っているのはおかしいし。しばし考え込んでしまいました。こういうことに詳しい方にどんな可能性があるのか聞いてみたい。自分は蟹の生態には明るくないのでなんとも結論を出せませんがどんなドラマがそこにはあったのか妄想が膨らみます。  死骸を触っていると自分の知らない世界はそちらの速度で回っていることを確認するようなことがしばしば起きます。自分でいるよりほかなく蚊に刺されているという昔の夏の歌を口ずさみながら夜は気散じに小さい西瓜を食べました。
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塩をかけて食べるのが美味しい。本格的な夏がやってきます。

菓子パンを干す

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 よく晴れたので磯乞食で持ち帰ったものを幾つか洗って干しました。  写真は椰子の実とハスノハカシパン。  椰子の実は中身がちゃぷちゃぷいってます。水をあげたら芽が出るのだろうか。  柳田國男がふと浜辺で見たという実の話から島崎藤村が詩を書いた話がありますが、柳田國男は潮の流れから日本民族の故郷を考察し、島崎藤村は椰子の実の漂白の旅に故郷を離れた憂いを詩的に重ね、さらに後世にその詩に曲を付ける人が現れました。  ただの椰子の実を前に、それぞれが自分にとっての把握の仕方でその実に思いを寄せています。そこから何を感じるかという単純なことが即ち椰子の実に自身を見、表現するということになってしまっている。しかもそれが個人や時代を超えて繋がったという点がとても興味深いと思います。  ほとんどの人が無視するであろう取るに足らないようなことに別の意味を見出し嬉々として語る人達と話してみたかったという気持ちに時々駆られます。  ハスノハカシパンは棘皮動物、ヒトデやウニの仲間です。初めて浜辺で拾った時は落書きされたかのようなわざとらしい星印を背負っているので人工物かと疑わせられました。でもヒトデの仲間と言われ納得。彼らも星型ですもんね。ちなみにウニも針を全部むしってみると5つの筋がありました。ハスノハという名前は、ひっくり返すと裏に蓮の葉のような模様があるからだと思われます。海へ行くようになってから体験を通して知ったこと。  浜辺を歩いていると結構落ちているのですが、20歳過ぎても全く知らなかった。こんなものが生きている世界があるのかと当時ちょっと驚きました。生きて動いているところを生で見てみたいけれど未だ叶っていません。今回は途中で拾うのやめるほどたくさん漂着していました。  それにしても棘皮動物は気の抜けた名前が付けられています。カシパンとかタコノマクラ、ブンブクなんてのもあります。表舞台には立たないけれどこっそり渚の集落で生きていますという感じ。隙間の世界の味わい。
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台風の仕事

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 来る前わくわく、近づいてドキドキ、爽快感を残して去って行く。  交通網の足止めがなければ台風は気持ちいい。どうせ来るなら思いっきり吹き荒れろという大きい気持ちになる。  さて台風一過。自分にとってはもうひとつ気になることがあります。  それはそのコースです。  太平洋側に逸れて行くタイプではなく、上陸するのが過ぎた後は特にそわそわします。台風の回転は反時計回りなので、今回のような場合は、関東磯乞食のメッカであるところの東側の九十九里浜や相模湾辺りでは南風が強く吹くのです。  強風は海中のものを深めにさらって数日後に打ち上げます。上手くいけばかなり古い漂流物にも遭遇する可能性も出てくるという寸法です。    浜辺を1日中歩き回りたくてうずうず。  海開きの前、海岸清掃なる名称で玉石構わず片付けてしまい、惨めに山のように積まれて「宝」が燃やされていたりする光景を目にすると絶望します。そんなこと思う人は100人に1人もいないのだからと知人になだめられて心を落ち着かせますが、久しぶりに朝から晩まで磯乞食がしたい。しばらく気づかないようにしていた気持ちが台風に呼び起こされてしまった。早く行きたいなあ。台風5号のコースによってはせっかくのお宝漂着も水泡に帰してしまいますし。  ともあれ今回のコースはなかなか見事だったと密かに台風を褒めています。  

骨を干す

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 よく晴れたので鬼怒川で収集してきた流木と骨を庭で干しました。  似ていますね。真ん中が骨、多分鹿・・・かな。  ある日ふと流木が欲しくなって川や海へ行ったのをきっかけに貝や死骸、骨へと収集に拍車がかかりました。収集癖があるわけではなかったと思うんですが、気になるものが何なのか腑に落ちるまでは無視できなくなってしまったのです。先輩の友人作家には「全焼しちゃったね」と言われました。    持ち帰って絵に描いたりしながら確かめているというような感じで、はっきりとした目的意識で拾うわけではありません。    ちょっと長い猶予期間のようで、はっきりしたときにあるいはそういった収集物の全てが必要なくなる日がくるのかもしれません。今やっていることが違ったカタチを纏って作品になるかもしれないといった意味のことを学生時代に世話になった教授に言われたのを時々思い出します。  自分の身の回りのものから自由になりたいと思うこともあるけれど、やっぱりその周辺を旋回しながら制作したものが今のところ作品というモノになります。そう言えば、大事なものの縁をずっと回っていて中心にたどり着けないような制作だね、と指摘してくれた講師もいたなあ。  他人に言われた言葉の中でも、妙に自分に入ってきて時々復活してくる言葉は自分の背中を押したり首を絞めたりしますね。そういうのを言霊って言うんでしょうか。    流木は収集歴が割と長いので厳選します。ひっかかる流木は少なくなってきた。それに比べると骨などは大抵お持ち帰り。これは骨に対して甘いというよりは骨ってやっぱりいいかたちをしているからではないかと思います。  文句無く美しい。ああいう「存在感」の作品を作れないものか。骨にたどり着くために流木があったのではないかとも今では思っています。  ふと思い立って骨まで流れ着いた。この「ふと」が次にいつくるのか分かりませんが、制作しながら待つしかありません。慌ててもやってこない。  ひとつの場からもうひとつの場へ行くためにはあの日海へ行ったような思いがけない踏み込みとそれまでの日々の溜めみたいなものがなければだめなんだなあ。    干されている流木と骨を見る自分の目が以前よりもやや複雑に変わってきていることを感じます。