個展「行き交ふ」を終えて

 気づいたら梅満開。
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 今日は次の展覧会の話し合いでいつもと違う道を歩きました。1週間自宅と伊勢丹浦和を往復していた生活もひと段落。自転車で往復してはいましたが、案外同じ道ばかりだと季節に疎くなるのか、個展に意識が向いていたせいなのか。  齋藤悠紀作品展「行き交ふ」終了しました。久しぶりに地元での個展だったので知り合いも多く来場してくれました。この会場では初めて発表するテーマや素材の作品もあったせいか興味を持って見に来てくれた新しいお客さんも多かったです。  ガラス絵は新旧作完売。その上、コラボレーション企画で少し大きめのガラス絵の依頼もいただきました。(詳細はまたの機会に。)  ペンやテンペラ、紬、金箔などで描いた1点ものも手応えのある反応をいただき、新作への意欲が湧いています。  銅版画を軸にしつつ模索してきた1点ものの制作が形になり、個展が成功した事に自信がつきました。  作品を購入していただいた方、見に来てくれた方、ありがとうございます。

巡る

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 朝、同じ散歩道を週に2~3度歩くようになってから5年経ちました。ただ気分が良いので歩き始めただけだったのですが春夏秋冬歩くと感度の鈍い自分でも季節を感じるようになってきました。  ハナミズキ、栗や柿、ブナ、コナラ。麦畑菜の花畑茶畑に葡萄や瓢箪の蔦が絡む、蜘蛛、蓑虫。白菜や大根畑の周りは菊が咲く。銀杏と松の大木の下は毎年どっさり落ち葉。水仙、芍薬、牡丹、百合が足元を賑やかにする。立派な竹林がしんとした道に響かす音色は飽きがこない。殺風景な真冬には南天の赤が映えます。  田舎道、しかも同じ道というのがじんわりと毎年少しづつ季節を自分の中に染み込ませてくるようでそういうものに対して心が開かれ「個」、というものを少し薄れさせる気がします。そういう感覚をカタチに出来ないかと思い銅版画にし始めました。巡る季節のように着実に進めたいものですが「我」が入ってくるのでそう達観出来ません・・・。

鬼灯

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 食用鬼灯をいただきました。存在すら知りませんでしたが、独特な強い香りが部屋に広がります。 弾ける食感、甘酸っぱい味わい。観賞用と比べると控えめな見た目ですが、薄い皮をぺりぺり剥くと鮮やかな色。口に放り込んでみると、今まで体験したどの記憶とも違う味でした。    花壇の鶏頭が台風で倒れましたがそのまま枯れずにどんどん咲いているので、間引いて吊るしました。どこでも花を咲かす。たくまし過ぎてちょっと圧力を感じます。
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 時々暑い日もありますが、つるべ落としの如く着実に日は短くなっていますね。秋はそれと感じたときにはもう冬がそこまで来ている。  5日からは鹿沼の川上澄生美術館で少し早めのリトルクリスマス版画展がスタートします。

夏の前日

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 ライラックが満開を過ぎるとアトリエの庭も立夏の足音。  梅雨に入る前から育てた方がいいらしいと聞き、今年は試しにネットを張ってゴーヤの苗を窓の前に植えてみました。真夏には涼しげなカーテンになるといいなあと思いつつ。実が収穫出来るともっと嬉しい。
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 久しぶりに締め切っていた部屋の雨戸を開けようとすると立て付けが悪いのかうまく開きません。おかしいなとがたがた動かすと何かの気配。よく見ると藁が少し落ちています。はっと理解した瞬間勢いよく鳥が一羽飛び立ちました。雀よりも少し大きな影。驚かせてしまったとなんとなく申し訳なく思いそっと雨戸を閉めました。次の日まで様子を見ましたが警戒させてしまったようで一向戻ってくる気配はなし。残念。  巣を掻き出すと青い卵。おそらくはムクドリに違いないでしょう。
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 思いがけない夏の前の出来事でした。    

折れても流れても

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 雪の日にのしかかっていたのを払い落とした際に折った沈丁花の枝が、室内に置いておいたせいか庭より一足早く咲きました。控え目な球状の細かな花も、葉ばかりの冬場の観葉植物の中では華やか。強い香りがアトリエに充満しています。
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   相模湾で収集してきた海藻がへばりついた瓶を1日干すとすっかり縮んで乾燥ワカメ。短くなった鉛筆の置き場に。陸で折られて環境が突然変わっても、海で流れて来た瓶にくっ付いて生きる事になっても、知らん顔で生き方いろいろ。  石圧笋斜出 岸懸花倒生  タケノコは石があれば斜めに生え、岸壁の花は逆さまでも咲く。  予定通りまっすぐ、ではない育ち方も美しい。

花喰鳥

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 制作中に換気で窓を開けると、蝋梅の香り。  雪が降った日に落葉し、蕾が開いていく様子が毎日よく見れます。枯れた庭の他の植物はこの時期は専ら引き立て役に回ります。個人的に目にも鼻にも喜びを与えてくれる木で立春過ぎても寒い春までの楽しみのひとつ。いい名前を付けたもの。  ピーヨピーヨ!とホイッスルの様な大きな声がやけに近くで聞こえるなと思い窓の外を見るとヒヨドリ。赤い頬が分かり易く、こちらに気づいても窓を開けない限り逃げず蝋梅をついばむ。農家では害鳥らしいけれど、1羽くらいなら木も鳥も同時に見れるし、いいかなとそのまま愛でていました。そう言えばこんな吉祥文もあった。  ところで去年も同じように蝋梅は咲いたけれどヒヨドリは果たして来ていたのだろうか、気づかなかった。そして鳥に精通し、里山の林を作る活動をしつつ鳥の写真を撮っている知り合いが、ぱっと遠くの野鳥を肉眼で見つけ、ほらあそこ。と言ってくれたけれどなかなか分からなかった事を思い出しました。アンテナが立っていれば容易くチューニングが合うものが、そうでないと突然気づいて驚いたりします。メーテルリンクの青い鳥のようにこちらのスイッチが入った時初めて見えるものだらけなのかもしれません。
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  鳥、すぐに見つかりましたか?

冬歩き

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 朝、洋菓子の粉砂糖のような雪に轍が引く線を見て歩き始めます。  霜の降りた雑草。
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 こういう質と色合いの絵が描けたらいいなと思う風景に時々出会います。
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 庭に放っておいた空だったはずの植木鉢に野菊が日光浴。この花はどこから来たのか。
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 散歩の締めくくりの格好良い夕間暮れ。遠くに線路と電車の音。  こちらとあちらにこれくらいの距離が空いている風景はどことなく懐かしさを感じて落ち着きとざわつきが同時にやってくるような奇妙な目眩を覚えます。  いつでも大地に戻るという選択もまあ出来るんだ、などとと思いながら家路に就きました。

初雪後の運動

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 真白な半紙にチョンチョンと墨で描いたタッチの様な早朝の葱畑。雪がのしかかってひしゃげたネットと骨格の有様も見てるだけなら風情があります。  通行人の迷惑を一顧だにせずに雪景色を十分鑑賞したので、暖かくなってくるのを見計らって今日は昼過ぎからアトリエ前の既にアイスバーンと化しつつある雪を夕方近くまでさらいました。  鑑賞の日々の代償にカチカチになったそれは雪掻きシャベルではほとんど削れないので、まず普通の鉄のシャベルで砕き、その後雪掻きシャベルで掬って一箇所に放り投げていく。繰り返してるうちに温まった血が血管を伝って身体中を巡ってきます。雪の中Tシャツ2枚で気持ち良く汗をかきました。日常生活以上の運動もたまにはやった方がいいようです。  1時間過ぎると腕と手がだるくなってきたけれど、気分がのってきたのでシャベルを置かずに身体の他の部分に頼りながら続行。放る時は腰ではなく膝の反動。シャベルを押す手と蹴っていた足の裏が痺れてきたのをカバーするため、交互に使いながら身体を捻じって自重を利用。色んな方向から突き刺していきます。シャベルを入れる瞬間だけ力を込め、その後は体重を傾けると、力を抜いても勝手にズリズリ進む。進んだ先で止めずにそのままの力の流れで放る。シャベルに体重をかけるタイミングと割合がポイントのよう。なるべく疲れないように工夫したつもりの変な動きが止まらずくるくると踊るよう。
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 最後に庭の木々に積もっていた雪もばさばさと落とし、折れていた沈丁花の枝を剣山に刺して一息つきました。  亀形の剣山の中央に樹。昔の人が想像した宇宙みたい。    早春まで枯れなければ、淡紅色の花の香りがアトリエに季節を告げてくれるはずです。
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野百合

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 庭に野百合が咲き誇っています。    いつの間にかどこからかやってきて勝手に生えてそこらじゅうに広がりました。次々に咲いていく様子は雑草のたくましさそのもの。昨日と同じ自然はありません。    自分の周りの生活、それにまつわる人間模様。ささやかな喜怒哀楽の日々。  「人の間」という決められた柵の中で毎日生きているわけですが、そういったこととまったくなんの関係も無いような顔で堂々と、活き活きとしている山川草木などを見かけると無性にほっとすることがあります。自分が一応、便宜上則っているルール、従っている世界観とまったく違う地平で悠々と素知らぬ顔で生き死にを繰り返し、次々に毎日更新されていく季節を感じると、お前の属している世界にまつわるあらゆることなど取るに足らないものだよと言われている気がし、こんがらがった頭身体が落ち着きを取り戻します。  人間がいてもいなくても流れの止まらない大きなものはいつでもこちらに開かれている温かさと、意識しなければ無理にアピールしてくるわけでもない冷ややかさがあり、そこが頼りにしているところなのです。  明日から2、3日旅に出かけます。
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スケッチ旅Ⅰ

 避暑しつつスケッチをしようと新潟は妙高高原へ。  高校1年の夏休みに風景合宿をやったのをきっかけに、また近年お世話になり始めたスノーグースというペンションに泊まりました。
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 相変わらず親切な御夫妻が出迎えてくれました。中も外も綺麗な建物。  当時油絵具やキャンバスを持ち込み合評会を夜までやらせていただいた記憶があります。普段と違う環境の新鮮さに意欲を刺激されまくり、短期間故の制約はむしろ集中力や瞬発力を養ってくれたように思います。イマ、ココで描き上げるんだ、という勢いを伴った絵との向き合い方は部屋でじっくり計画を練って好きなだけ描くのとは違う味わいがあるようです。  日常生活の煩わしい諸々の事に引き戻されずに外で1日中制作し、合評や雑談の中で友人らと関わるのは気持ち良く、年に一度だったにも関わずとても印象深く覚えています。  着いてすぐに近くのいもり池へ。1周500~600mの睡蓮の池。池の淵には樹木や草が生い茂り妙高山が見える美しい場所。絵を描いている人写真を撮っている人散歩している人。良く晴れて遠くまで見えるのと引き換えに暴力的な日差しでした。ここ最近暑さが続くとのことで避暑は断念。
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 池の淵に立ち睡蓮を描いていたら夢中になって気付くと3時間。ちょっと頭クラクラ。ペットボトルの水は何時の間にかお湯に変わっていました。
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 ペンションも周りの環境もよく覚えているので初めて訪れた時から10年以上経つなんて信じられず、自分が成長していないのかと訝しく思いましたが、50代の先輩も自分が思い描いていた50歳はもっと大人の筈だったと言っているのを考えると、実際の歳と本人の気持ちには完全に埋められない溝が付いて回るようですね。  死の床で、あれおかしいな、もっと大人になる筈だったんだけどなあと思いながら白髪頭の子供は目を閉じるのでしょうか。

アトリエの1日

 昨日の遠出と打って変わってひきこもり。今日はアトリエから1歩も外に出ませんでした。    部屋にいながら霧雨の中咲いたアガパンサスを眺めます。その名の通り愛らしい。アフリカ生まれで別名アフリカンリリーとのこと。前の家主が植えていったものですが、常に目に見えるところに花が咲いているというのは気が利いていますね。自分だけでは到底そこまで気が回りません。お陰で興味が広がりました。    ブルガリアの民族音楽をBGMに制作していると、雨に包まれながら静かにどこか別の世界へ旅する様な心地。  音楽は良くも悪くもその場の雰囲気を強烈に支配するので制作には向き不向きあって、邪魔に感じる時は窓から聞こえる外のなんでもない音の方がはるかにましな時もありますが、今日は落ち着いた気持ちを助長するものだったのではかどりました。  未発表で筆が止まっていた作品にやっと加筆(加針?)少し動いてきて呼吸が出来ました。しばらくほっといて良かった・・・かも。まだ分からない。また明日からその続きです。
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試刷りと完成

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 満開の紫陽花はこんもりとして触覚的な視覚が気持ちいい。花単独では額紫陽花よりも好きだけれど全体の佇まいになると蔓紫陽花も捨てがたい気がします。    紫陽花を横目に新しい版が出来たので試し刷り。  刷り上がりのイメージがはっきり決まっていなかったのと、染め雁皮紙を試してみたかったのであれこれ刷ってみる事にしました。  雁皮紙という細かい繊維で漉かれた薄い和紙は、浅い溝のインクも刷り取ってくれるのでプレスする際にベースの厚手の洋紙にインクと一緒に張り込みます。  雁皮刷りと呼ばれる技法。それが自分の刷りの基本です。    仕上がりは一見モノトーンの作品ですが、インク自体の色と2枚の紙の組み合わせにより作品全体の色の印象が微妙に変化します。意識しない他人の目にはほとんど変わらないでしょうとおっしゃる方も大半だろうとは思いつつも、つくる方としては少しでも良く仕上がる可能性があるかも…と思ってしまうとやらないわけにはいきません。  会場で気づいて指摘してくれるコアな方に会うと報われた気がしてちょっぴり嬉しい。    刷り終わって並べた時の直感でぴんときたものをとりあえず第二候補くらいまで絞り一旦完成。  最近では発表前にしばしアトリエから出さずに他の作品をつくりつつ眺める期間をなるべく長くおくように心がけています。故にエディションを刷りあげるのはもう少し我慢。作品の方からお呼びがかかってきたら刷り方や版自体に手を加えます。  当初の予定通りで1回、それを少し突っ込もうかなで1回、予想外のことが向こうからやってきたり、こちらが飽きてわざと踏み抜いたりでじたばたして1回・・・。  発表は締め切りであり、それまでに「完成」が何回訪れるかは作品と自分の関係次第です。完成は制作の終焉ではなく一部かもしれないと思います。半ば無理やり締め切りがやってきたけれど思いのほか良いなあという時と、手を加え続けて段々良くなるのと色々。  作者と作品の関係は一筋縄ではいきません。
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 夕方から稚鮎の天婦羅と小エビのかき揚げで日本酒。 この季節の稚鮎が美味とのことで知り合いに勧められて食べに行きました。  期待を裏切らず絶妙な苦味でいくらでもいける。鮎と言えば塩焼きだと思い込んでいましたが、いいものを知りました。

水の容器と本

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   柔らかい雨に包まれて紫陽花が咲きました。紫陽花は英語では水の容器という意味。なんとなくそそる名前ですね。妄想が膨らみます。    窓の水滴を眺めていたら柄澤齊さんの「水の本」という1枚の作品を思い出しました。水滴が文字のように並んでいる木口木版の作品。  博識な大人のバックボーンで支えられた子供のように軽やかな発想を息を飲むような技術でさらりと表現される姿に惚れ惚れ。本や文字で表された物語や神話伝説宗教など人間の思想が版画のかたちを借りて一目で飛び込んできます。高校生の頃から変わらない憧れの作家です。  幸運にも学生の頃に1日だけ大学に公演会でいらしたことがありました。本と版画について、どちらも個人で収集して掌で愛する事ができるものなのだとおっしゃり、自分が出版される本や版画にこだわるのは手から手へ渡るものをなくさないためのある種の抵抗なのだと熱く語られていました。    見えない妄想を他者の目にもありありと見えるようにできるのが優れた作家の条件のひとつだと思いますが、思想を表現するために練られたイメージと完璧にコントロールされた手から生まれる作品は、まるで生まれたばかりの初々しさと神秘を纏い、拙さいやらしさ重苦しさとは無縁。イメージとテクニックが深い場所で結ばれているように感じます。作品と作者のこういうふうな結びつきというものがあるのかと今でも印象に残っています。

部屋に咲く花

 薔薇の花を部屋の中でも眺めようと思い立ち外に出て枝をちょきちょき。手袋なし。道ゆく犬連れの婦人から棘は大丈夫なのかと心配されました。  想像以上にぷすりぷすりと刺さってくる。使用目的が明確な道具のような機能美を宿している棘は深めに指に食い込むと抉りこむように薄皮の下に滑り込んできます。  生き延びる薔薇の本能を断絶する痛み。に懲りたので多分次回は手袋をします。本能対頭脳。
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   コップを出してきてひょいと投げ入れてみると気に入るのと気に入らないのが出てきます。取ってきてそのままそこに置くだけでいいと思ったのですが、実際にそうするとそうしたという感じは出にくく何か不自然で気持ちが悪い。少し手を入れた方が生きた感じが出てくるよう。  そりゃあ切るっていう行為自体が不自然なのだから、もう一度自然をつくり直すのは当たり前かと気付く。目の前にあるのは薔薇ではなく薔薇の死骸なのだと考えを改めます。だから並べただけだと死んで見えてしまうのですね。  事実は小説より奇なりとは言うものの良いフィクションは現実よりもずっとリアリティを感じさせます。ドラマツルギーが響いていれば後は受け取る人の世界がどれくらい広いか深いかによって響き方が変わるわけですね。  現実を超えたリアリティの獲得の秘密は「人間が受け手である」ということに起因するのではないでしょうか。  足し算引き算しながらふと気づくとデッサンをやる時に近い感覚を使っている。でもだんだん自分のデッサンの癖のようなものも見えてきて嫌になったところでやめる。5~6個作り部屋の色んな場所に置いてみてひとまず満足。  目の前の素材の制約と偶発性に遊びながらしばらくゆらゆら触る。こうしようかなと自分の意志を潜り込ませ、ここでいじるのをやめようと決める。作品制作と同じ。なかんずくドローイングに近いと思います。入れ物や飾る場所によって見え方が変わるのも額や展示空間のよう。  作品よりも早く形が変わっていくことと、いじり途中にこちらの意志が介在するタイミングと入り方が少し違う気がしましたが、絵は今まで何枚か描いてきたけれど花はあまりいじらなかったから逆算できないのでしょう。でもその分新鮮で面白いから気が向いたらまたやろう。
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 最初はちょっと花を部屋に置いてみるかという単純な気持ちから生け花も始まったのでしょうが、師弟関係とか○○流とか大々的になってくるともうちょっと重苦しくて苦手です。部屋に花置くのに誰が偉い偉くないもないだろ~自分が気に入りゃあいいじゃない!と言いたくなりそう。破門でしょうね。  ただ理由は分からないけどこれはかなりかっこいいなって感じる生け花はたまに見かけます。さりげないけれど原始的な力強さがあり、周りの空間を緊張させるような凛とした爽やかな存在感があります。  それが「自然」でしょ。ってことなのかもしれませんね。

部屋に吹く風

 寒くも暑くもなく、ちょうどいい湿度。日中部屋の窓を開け放って制作をします。  梅雨に入る前、部屋を吹き抜ける風が心地いい季節です。紅白の薔薇が道にこぼれるほど毎日咲きます。
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 なるべく窓は開けておきたい、外と中が繋がっている状態の方がなんとなく心が落ち着きます。締め切った部屋に長時間は辛いけれど常に窓全開というのは現実的に難しいので、音楽やコーヒーで密室をごまかすことになります。以前いたアトリエはドアも開けていたのでよく猫が入室して勝手にくつろいでいました。  風の入る窓の近くに一人で座ってぼうとしながらコーヒーのつまみに外の景色や画集を眺めたりするのを楽しみにしながら制作をします。まあ大抵普段からぼうとしているのですが・・・。出かけない時はだいたい毎日同じような日々。  制作は作者の中では浮き沈みがありますが、傍から見ていたらぼうとしているかごろごろしているか思いついたようにずうっと描いているかほとんど気まぐれに遊んでいるように見えるかも知れませんね。    メキシコで本を出版したという哲学者の方と今日お話しましたが、哲学者は自分の学びたいことのために嫌なことも一生懸命勉強して糧にするけれど、作家は好きなことを野生的に探りものをつくると指摘されました。  やっている側からするとまあそういう作家ばかりではないだろうと思いますが、「やっていて気持ちがいい」がものをつくる上で占めている割合も侮れないのではないかという実感はあります。(仕上がりや見た目が心地いいとかいう話とは別です。行為そのものについてです。)  しかも経験から言うとそれが本当に一線を越えた「気持ちいい」になると作品が結果的に生き生きするようなものになっていったという気もします。あまり自分が乗っていないと作品にもそれが出てしまう。怖くもあり、愉快でもあります。 

月は東に日は西に

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 菜の花や月は東に日は西に  初めて聞いたときはそんな単純なと思い抵抗あったけれど結局今でも頭に巡ってしまう俳句です。    誰かといないと寂しくてしょうがないのだという後輩の話を聞いていた時に、その場にいたもう一人の知り合いにところで齋藤悠紀は寂しいって思ったことあるか(ないでしょ)。と言われて、なんで分かるんだろうとちょっと驚きました。まったくその通りで、寂しいという気持ちを抱いたことはありません。会話の流れのレベルならたまに口にしたりしますが根本的には正直よく分からない言葉なのです。  独りでも誰かとでも違った種類の楽しみがあります。ただ個人的にはどちらかと言えば前者の方が生きている中で無理してでも作りたいと思うくらい大事な時間だとも思っています。周囲の人たちにはとても恵まれてきたと思いますし、愛されているかはともかく愛してはいますが、だからこそとでも言うか。「それ以外」のつながりがどうしても必要なのです。  同じ人にこんな話をされました。  ある時独りで山へ登り、山中でテントを張って泊まった。その時周りには誰もいず、驚くような暗闇で怖くて寝付けないほどだったけれど朝目を覚まして外の景色を見たときにすごく大きなモノに抱かれていたことを感じた。  というものです。  独りにならないと大きなナニカとはなかなか繋がれないのです。どこかに出かけても、制作をしていてもそう確信します。蕪村もひょっとしたらそういう大きな繋がりを、菜の花畑でたった独りで立ち尽くしながら感じたのではないかと想像します。  凄くいい絵を見ていると、周りの人が一人残らずいなくなればいいのにな、と思いますね。あれもナニカとの繋がりを邪魔されたくない心理の発露なのかもしれない。  自分がそう感じている人は相手がそうだということを見抜いてしまうものなのかもしれませんね。  菜の花、すごい匂いだなあ!
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つつじとかげ

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 玄関の躑躅に蜥蜴。「つつじ」も「とかげ」もなんでこんなに複雑な漢字なのだろう。どちらも珍しくもない連中なのに。  でも珍しくはなくとも毒々しいほどに満開に咲いた花の合間にひょっこり乗っかっているとおっと思う。蜥蜴が躑躅になんの用があるのかは知りませんが、なんとなく趣味で登ってみたぜ、という顔に見えます。
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 反対側にもう1匹。こちらは尾がなかった。  子供の頃、蜥蜴は尾を自分で切って外敵からまんまと逃げおおすという話を耳にしたときは興奮したものです。とりあえず見つけたら片端から捕まえて尾を切るか観察しました。捕まえ方に問題があったのか、置き土産をして去っていく気の利いたやつはいなかったけれど。  でもその頃から蜥蜴、好きです。しばらく尾は動いているから外敵はそちらに夢中、が本体はもう別の場所へ行っている。ちょっとぐらい身体はくれてやる、いつかまた生えるさ。ハードボイルドです。思い切った困難の切り抜け方ではないですか。かくありたい。

にわにて

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 寒い時期に仕込んでおいたものがにょきにょき。  そして
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成功。よく生えた。  チューリップってなにか幼いイメージが付いていて子供が並んだみたいに見えます。  庭について以前調べたときに特に西洋と東洋の相違点あたりに興味を持ちました。  以下は一般的な個人の庭にはあてはまらない部分もありますし、専門家でもないので勝手に感じた意見です。    人間が自然を制御下においてコントロールすることの美の象徴が庭である、そしてそれが巨大に隅まで完璧に出来ているほど素晴らしいというのが西洋の庭園づくりの底流にあるのに対して、東洋では人間の手でコントロールされていない自然を身近に持ってくるという考え方があるようです。もちろん手を入れないわけではなく隅から隅まで手を入れて「自然な感じ」を演出するわけです。不自然に自然をつくるというパラドクス。  前者はアリスの世界のような非日常の空間に迷い込んだような驚きを楽しむ、後者は素敵な自然を毎日見に行くのは大変だから、いつもの生活の中に持ってきちゃえという感じもします。  西洋と東洋の美術というものに対する価値の高さの置き方に似ている部分もあるような気がします。  どちらも細部まで気を張り巡らせて違う着地点を目指すというのも面白い。  制御できない雨や風や日差しなどの自然と、完全に制御された屋内空間の間にある「あそび」の部分が庭なんですね。植物が勝手に伸びたり鳥や虫がやってきたりするけれどこちらも刈ったり採ったり干渉できる境目。    どれくらい向こうからくるものの侵略を許し、どれくらいこちらが干渉するべきかということを考えるのは絵を描くことと似ていて面白いです。どういう庭が好きかということはどういう絵が好きかということなのかもしれません。

散椿静動

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 椿の花びらには、桜とは異なった種類の「散る迫力」があります。  植物の花が散っている、というよりは何かの肉片がぼたぼた大地に散らばって滲んでいくよう。  先月他界された中川幸夫さんの、密閉容器に大量に花びらを集めて、ぐずぐずに形が崩れた状態で容器をひっくり返したパフォーマンスの写真を以前何処かで拝見しましたが、ああいうぞくぞくを思い出します。(花びらは椿ではなかったと思いますが。)  お会いしたことはありませんが、図版を拝見した途端に、美醜を超えた命の奥行きを瞬間的に目の前に盛られたような爽快さを感じ、あ~分かるなあ・・・と勝手に共感したりしていました。  何が分かるのかと聞かれても困るのですが「やりたい」「気持ちいい」って感じです。余計分かりづらくなった・・・。  椿と言えば速水御舟の「名樹散椿」も思い出します。  実際にあった京都の椿をモチーフにしたそうですが、花びらが1枚ずつ散った珍しい樹だったそうです。  意匠化され、距離を置いたような冷めた表現に見えます。あそこまで完全にコントロールが利いているとつまらなくなりそうですがそうはならない不思議。完結している静かな世界に、椿の花びらだけが落ちる音を立てているという感じがします。    余談ですが「中川さん」と「速水御舟」って後者を呼びつけてますが、中川さんを「同時代を生きる人」という風に思ってのことです。速水御舟は作品がセットになっているのでもはや名前が記号なのです。さん付けのほうが違和感があります。  ともあれ赴きは違いますが、両方とも花をモチーフにした表現。  その作品を見たときに感覚や記憶が蘇って見る人の何かが震える。こういういのをたった一つの作品でやってしまうのはとてつもない集中力だと思います。  中川さんの作品は一見中身はどろどろの「動」ですが、ひっくり返した状態からはそれ以降の沈黙「静」を感じますし、速水御舟の作品は「静」の世界そのものの中にかすかな「動」がある故にそれが際立つのだと思います。  同じものを見ても見ているものは違うってことを思い切り、フルスイングで教えてくれている気がします。  あそこまで思い切りバットを振れるようにしなければ他人を震えさせることはできないんですね。  

花掬い人

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 朝、家の前から子供の遊ぶ声がします。見ると舞い散る桜の花びらを帽子や虫取り網で笑いながら掬っています。ずいぶん風流な子供たちです。本人たちはきゃっきゃっと遊んでいるだけですが。  その日の夕方、何か飲みたくなって先日某輸入雑貨屋で手に入れたカモミールの袋を開けました。無愛想に花を摘んで袋に突っ込んだといった感じがちょっと面白かったので手に取ったものです。  毎日コーヒーばかりで滅多にハーブティーは飲まないのですが、なぜか今日は無性に飲みたくなりました。何か体に足りてないのか。   茶漉しをカップに乗せてお湯。雑な淹れ方ですがとりあえず飲めればという横着さ。
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 花が膨らむのをじっと待っていたらふと朝の花掬いの子供たちを思い出しました。似ている・・・。  普段繋がらない、というか繋げて考えない何かと別の何かが自分を通して繋がると、新たに回線が出来た感じがして気分が高揚します。  こういう思いを馬鹿げていると一笑に付する人もいるでしょうが、時々するそういう経験の中でも何度も繋がる回線には自分にとって大事なものがあるような気がしてならないのです。  根拠はまったくありませんが、意識の外の何かが自分に働きかけているときに、自分の意識がそのもやもやの行き場を探して繋げたがっているような気がするのです。そういうものは直感的な感覚なので、かたちにするのは手間や時間がかかったりして苦労します。後で振り返ってやっと分かることも多いです。  でもこれ。繋がってしまったら仕方ないのです。なにかをつくる人間は根本的にはその回線に抗えないのではないかと思っています。いや、何かをつくる人には限らないかも。    何気なく掬った掌中に掬ったつもりのないものが入っていること、ありませんか?

花掃き人

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 玄関前に花が散ります。    桜は花びらがひらひら散り始めた頃が個人的には好みですが、咲く寸前や咲いたばかり、満開から葉桜まで順を追って目を楽しませてくれます。変化していく時それぞれに良さがあります。早春が晩春、初夏へと移り変わっていくのを毎年義理堅く告げているよう。    咲く花舞う花散る花積もる花、全て同じ桜の花。    マグノリアもぽたぽたと花を毎日落とし、先週すべて落ちきりました。すっかり初夏の準備万端でしょうか。  毎朝花びらをちりとりいっぱいに集めていました。以前掃く前に積もっている状態を楽しみたいということを書きましたが、「掃く」ことそのものは実は結構好きです。    寺の小僧は毎朝庭などを掃きますね。あれも修行の一環らしいですが妙に納得する部分があります。  掃いているとその間だけ余計なことが頭から離れ、不思議と空っぽになった感じがするのです。没頭というとちょっと大げさですが・・・まあ頭の構造が単純なのでしょう。  ばらばらに散らばっているものをひとつに集めてその場からなくすと、その場が掃く前とは違ったものに生まれ変わったようにも感じます。場の誕生。再生の儀式。    トイレを隅々までピカピカにすると、心が落ち着くという知り合いがいますが、それもこういうのに近い感覚なのかもしれないと思い出しました。  「自分」がなくなり、「掃く」になるというのは気持ちがいいです。
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春の置き去りと至宝のこころ

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 「入学式」というものが過ぎても桜が満開なんて久しぶりな気がしますね。   「生徒」や「学生」と呼ばれる人たちがガッコーへ行く季節。きっと新しい服を着て新しい環境で新しい人と会い、新しい日々を送るのでしょう。  この季節は大抵こころが落ち着きません。「みんな」に「置いて行かれる感じ」がします。誰がどこに置いていくわけでもないのですが・・・。桜の満開についていけずに取り残される感じがします。  ひとつひとつの個展を軽やかに乗り越えていけるのがかっこいい作家なのでしょうが、いちいち気合いを入れて、ぎりぎりまでああだこうだと制作を続けなくてはいけない現実の自分がいます。それだけやっても自分の展覧会は見るのが辛いことの方が多いのもまた現実。自らが思い描く理想の作品、展覧会にはほど遠い。やるほどその距離の果てしなさだけははっきりしてきます。少なくともそれが分かるだけ前進していると信じたいですが。  受験や卒業制作、修了制作といった区切りのような時に凄く良い作品を見せてくれる友人作家を見ると素直に凄いな~と感心します。それはとても難しいことのはずだからです。  「満点を取らなければいけない時」はある気がします。  その時は80点でも90点でもだめで、「満点」以外は意味がないのです。普段何点かもほとんど関係がない。    そのときの自分のベストを尽くしたのだからいいではないか。とはどうしても思えません。    失われた空間は時間と違って取り返せないからです。普段は逆に考えていますが、失われるのは目に見える空間、触れる物体、それにまつわる想いの方なのだと思うのです。「時間がない」ではなく時間はいくらでもあるのです。  この春は、個展の後にしなければならない細々したことをやりながら、季節の憂鬱と展覧会後の反動と個人的なことが重なり、時が凍りついたような2週間の中でそんなことを考えながら過ごしていました。    夕方急に思いついて東京国立博物館で開催されているボストン美術館 日本美術の至宝を見に行きました。  閉館近い、遅めの到着でしたが平日の割りに込んでいました。  最初の部屋からいきなり凄かった・・・。そしてその部屋が全部見た後もやっぱり良いと思いました。    これが質の高い美術作品というものだよと言われて頭をハンマーで叩かれたような衝撃でした。ああ見に来て良かった!と小さくガッツポーズ。図版で見て知っている絵も多かったものの、やはり本物の力は凄まじい。ボストン美術館が大切に保管していたことに納得、感謝。  部屋がぴんと張り詰めるような緊張感のある素晴らしい技術とそこから香ってくるような絵の「格」のようなもの。何も言葉がなくとも、奥深い思想を感じずにはいられないような圧倒的な説得力があります。  少し落ち着いてくると、当たり前のことですがこんな絵を描いた先人がいたのかということに気付きました。不思議なことですが、しばらくのあいだ自分と同じ「人間の仕事」とは思えなかったのです。一生に一点でもあんなものが作れれば作り手冥利に尽きるだろうな~などと思いました。  閉館ぎりぎりになって空くのを待ち、また最初の部屋に戻り、1点ずつ1対1で舐めるように見てきました。  素晴らしいものを見ると不安定なこころが少し落ち着きますね。また行こうかな。  ありがたや。    

花びらひらひら

 5つ町があったらその中の1つか2つの町には大抵あるような、無名な桜の並木通りがアトリエの近くにあります。満開でも誰が花見に来るわけでもないので静かなもの。そういうところを毎日通り抜けていると今日は2部咲き今日は5部咲きとただの通りも楽しみなものになります。
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 そんな道も今日は満開。こんな日は出かけなくては。いつもは20秒の並木道を200秒くらいかけて通り過ぎ、友人たちの展覧会へ。  一つめは渋谷のギャラリー・ルデコでのグループ展。最終日。高校生の時からの付き合いの高橋学説君が出品していました。彼は呼吸をキーワードに、独自の視点で変形させた動物などをモチーフしたタブローをアクリルで描きます。新作は今までになかったカタチが登場していました。作家がいるときは話すと色々聞けて面白いですよ。個展が楽しみです。  彼と奥さんと連れ立って二つめの展覧会へ。代々木上原にあるギャラリー上原での楯とおる君の個展へ。彼はこの画廊企画の展覧会で知り合いました。この個展は作家がギャラリーに3週間ほど滞在、もしくは通い、その場で展示だけでなく、公開制作やワークショップ、パーティーや寝泊りまでするというユニークなものです。楯君は外から見える大きなイーゼルに大きな作品を立てかけて制作中でした。横に来場者が魚を勝手に描くという企画の絵があったので学説君と自分が描きこんできました。彼は大きな蛸。自分は小さな骨の魚。リラックスした雰囲気で入りやすい感じの個展でした。詳細はこちらからhttp://www.galleryuehara.com/
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写真は蛸を描く学説君。周りの絵は楯君のです。  代々木公園の桜を眺めた後、帰りに一人で三つ目の展覧会へ西荻窪に足を延ばしました。  SAWYER CAFEでの個展。http://sawyer.nishiogi.biz/  このカフェでも展覧会をやらせてもらったことがあります。朝までやっているカフェなのでのんびりでも安心。都心で終電を逃すと朝までお世話になったりすることもあります。レコードいっぱいで綺麗な店内です、ここで聴いて購入したCDもあり。粋なマスターと手料理が美味しいcomyさんがいらっしゃいます。つい長居してしまう場所です。展覧会も良かった。妃香利さんはギャラリー上原で知り合いました。油彩水彩パステルと素材は違えど自然光を感じる温かみのある絵を描いていました。小さなパステルの作品が特に惹きつけられる感じがしました。  どこへ行っても桜が目に入り、また花見人がいた1日でした。  舞う花びらのごとくひらひらと(ふらふらと?)展覧会場を渡り歩いて帰宅。  展覧会をはしごしていると作品が人や場所を繋いでくれるのだなあとつくづく思います。目には見えない豊かな広がりがいつの間にかある、というそんな輪のようなものを感じます。可動性の輪です。

マグノリアが咲く

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 昼間は暖かいですね。白木蓮が満開に咲きました。青空を背景にあまりに鮮やかでしばらく見入ってしまいます。白い鳥が止まっているよう。よく見ると上向きに閉じたような変わった咲き方をします。  調べてみると学名はMagnolia denudata  Magnoliaはモクレン属、denudataは裸の、露出したという意味。Magnolia(マグノリア)はMagnolさんというフランス人に由来するそうです。  そういえば以前「マグノリア」という映画を観ました。上映中に気になって勝手に期待していたのですが、あまりヒットもせずあっという間に映画は終わってしまい、その後忘れずいぶん経ってから大学で進められてやっとDVDを観ました。  いい映画だと思いました。あの時の期待というか勘は正しかった。  たくさんの主役が出てきます。というか全員脇役みたいな映画です。  その人たちそれぞれの人生のある瞬間にスポットライトをあてて話は進みます。感情移入できる人、理解不能な人、滑稽にすら見える人。でも他人の真剣にやることをずっと観ていたら多かれ少なかれ滑稽に見えてしまうものなのかもしれないなあと思いました。  何かが変わり、何かを変え、その人の人生にとってだけとても重要な変化が起きます。それは他の人から見たら他愛ない小さなことですが、本人は人生をかけての一大事であり、その人の人生の価値が瞬間に浮き彫りにされるような、劇的で味わい深い内容だと思った覚えがあります。そういうのって案外よく起こる気がします。溜まりに溜まったものが一気にあるきっかけでぐるりと変化するというようなことが。  どうして「マグノリア」というタイトルなのかは分かりませんが、そう言えばマグノリアはある日突然大きな真っ白な花が満開に咲いて人を驚かせますね。でも蕾は寒い時期にゆっくりと膨らんでいます。大げさに言えば表面化するのをみてそれがマグノリアの木だったとはっと気付くような劇的な変化を遂げます。見事な純白としっかりとした肉厚さ。しばらく楽しめそうです。
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梅ひらく

 
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 春のはじめは梅、終わりは桜。秋は萩から菊でしょうか。花札のように花の咲く順に季節が変わります。  季節の変わる順に花が咲くというのが本当なんでしょうが、人よりも花の方が季節を先取りするようなので梅が蕾を膨らませ花を咲かすと、あもうじき春だということになります。以前はまったく生きた植物に惹かれませんでしたが、なんとなく種を撒いたり鉢植えを置いてみたりしてるうちにだんだんと面白くなってきました。  花札をテーマにした連作も作りました。  もともと興味があるからそれに準じた作品が出来るのか、作りたいイメージを追いかけて制作している過程で知ったり考えたりするから興味がわいてくるのかよく分かりません。その両方かもしれない。  足跡のようなものを見つけてたどっていくうちに迷子になったり見知らぬ場所を歩いたりします。見つけた後で、ああ最初に見たのはこいつの足跡だったのかと気付くのかもしれません。  自分は最初からそれを知っていて探していたような気もするし、姿を表した瞬間にはっと気付いた感じもあり、ずいぶん経ってから理解したようでもあります。全部そうと言えるような気もします。  作品が出来ることと作者自身の府に落ちることはまるで花と季節の関係のようです。