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齋藤悠紀
制作とその周辺のこと。
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個展「見るなの座敷」終えて

2018/07/21 23:52
 銀座三越7階ギャラリーにて開催した個展、「見るなの座敷」の会期が終了しました。まだ残った雑務をしつつ、新たな制作も始めています。暑すぎて日中、いや日が沈んでからも、エアコンのない部屋での制作は無理があります。猛暑も猛暑。
 個展はと言えば、とても手応えのあるものでした。自分以外の人が自分を作家にしていてくれるのだと感じる結果でもありました。今年に入ってからこの個展の為に進めてきた新作のペン画とガラス絵は、ほとんど手元には帰ってこない、というありがたい事態に。有難いという字の如く、百貨店で展覧会をするようになってから8年間というもの、ここまで恵まれた結果になったのは初めてです。
 百貨店という厳しい現場に、20代から立たせてもらい肌で感じてきたことが、ようやく鈍い自分でも作品に反映され、展覧会として現実に形にできるようになってきたと思うと、そのことが、本当に嬉しいです。
 まだまだ拙いことは多く、やらないといけない具体的なことは山積みですが、それはそれとして。今回の個展に来場してくれた方々、作品をご購入していただいた方々にここで御礼申し上げます。

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銀座三越個展「見るなの座敷」

2018/07/14 00:59
 個展始まりました。初日から多くの方々がご来場くださり、今年、丹精込めて作り続けた作品たちも、会期後は作者の手元を離れる予定が決まり始めています。
 まずお客さんたちに感謝。会場のスタッフの方の接し方が明るい。隣の先輩作家にも興味深い話を聞かせてもらい、他のブースの方にも興味を持っていただけました。まだ3日間ですが、そういう明るく内容の濃い時間に恵まれています。10時半から20時までずっと在廊、というのは文字にすると身構えるほど長いですが、周りの方達のお陰で、こちらの体感は短いのでしょう。
 今日終わる頃に、5月の新宿伊勢丹の「骨のあるアート展」でお会いしたコレクターの方が偶然会場にいらして、幸運にもじっくり作品をご覧いただきました。前の展覧会の作品を覚えていただいていたのも光栄でしたが、
 「僕はいろんな作家の作品を見ているから、よしあしは分かるつもりだよ。あなたの作品は珍しいし、よいから、今年死ぬ気で制作すれば来年ブレイクするよ。」と予言めいた励ましをいただきました。要するに、今取り組んでいることを全力でやって、きちんとプロの作家になれよ、というコメントだと理解しました。死なないように注力します。来年をお楽しみに。
 ところで銀座三越の社食は、明るくて開放的な雰囲気で、これは百貨店の中でも珍しく思いました。そういうのも気持ちが疲れない点ですね。

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 少し模様替えしながら連休も在廊します。
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個展「見るなの座敷」飾り付け

2018/07/11 00:49
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 個展の搬入、飾り付けをしてきました。この会場は初の展覧会です。初の関わりがワンマンショー、「個展」というのは、どういうリアクションがあるか全く読めないという点で、かなり緊張感があります。
 しかし、さきほど実際に会場で仕事をしていて、スタッフの方々の応対も丁寧だったお陰で、その心配が半減しました。
 まず実際にその場で飾ってみる、というのは、アトリエで飾るのとは印象が異なるので、それを目の当たりに出来て、ようやくその場で、こういう展覧会なのだ、と実感するというのはやはり大きいです。
 そして、会場スタッフ全員で、作家の作品説明を聞く時間を設けていたことに驚きました。百貨店で展覧会をやるようになってから、会期中、世間話的に、テーマや素材についてたまたまわずかに話すことはあっても、その場の全員が、会期が始まる前に作家から聞いて、情報共有しておく、というのは初めての経験でした。質疑も形式的なものではなく、当たり前と言えばそうですが、それだけお客さんと接するということに真剣なのだ、という印象を持ちました。
 ようやく個展飾り付けまで終わりました。是非初の会場で、初の1点ものの現物を見ていただきたいです。当然版画とは違い、この展覧会でしかお見せすることは出来ない作品もあります。
 お待ちしています。
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 飾り付け直後。

 銀座三越のこちらのURLから、この展覧会の案内もご覧いただけます。
 https://mitsukoshi.mistore.jp/store/ginza/floor/7f/gallery/index.html#gallery005
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銅版画の試し刷り一覧公開

2018/07/10 01:11
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 銅版画は刷りが段階的に残っていきます。こうして並べてみると何を考えて何をしたか、がある程度後から追跡出来ます。左上から右下へと順に移行していきます、始め、雉は尾を入れる予定がありませんでしたが、途中から出てきています。障子は始め全体が描かれていましたが、削りました。最後で、本刷り用紙を和紙へ変更し、更にロクタ紙というヒマラヤ山麓の手漉き和紙で完成。
 この和紙はもうほとんどストックがないそうです。和紙屋の主人が、この10年で随分和紙事情は変わった、この先10年が怖いと漏らしていましたが、そういう和紙が、電車に乗って少し歩けば入手出来る国に生まれたことは幸運でした。レンブラントはわざわざ日本から和紙を取り寄せていたというから驚きです。
 気に入った和紙があったら作品として残した方がいいよ、とも言われました。元来和紙が好きなので、作品に合えば今後も色んな和紙を試したいと思っています。

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 額装は和紙の耳を活かして、箱額です。
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作品周り

2018/07/06 02:06
 個展の搬入に向けての地味な舞台裏ですが、絵を描く以外の仕事も絵を描く仕事に含まれます。例えば黄袋はユザワヤで布を量り売りで買ってきて、それを縫います。
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 そして、注文する額に付属するのがほとんど合わせ箱(箱自体がバカっと離れ離れになるタイプの箱)なので、作品の出し入れがし易いさし箱(横の狭い面だけがぱかっと開くタイプの額)に改造したりしています。一人でやっているので、全ての作品まで流石に手は回っていませんが、せめて1点ものの中でも大きいサイズのはなんとかしたい・・・。そもそも箱がはじめから付いていないミニ額などはゼロから作りましたが。
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こういうのは、あまり作戦を練らず、ともかくやり始めてしまいます。やりながら改良。作りながら気づいたことをメモしたりしながら微調整していくのが常です。そうすると段々面白くなってきます。

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 手作りなので、アラはご愛嬌ということで。
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個展「見るなの座敷」

2018/07/03 13:55
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 個展の案内状が出来ました。海外のお客さんも多い場所とのことで、英字入り。
 顔写真は鹿のアバラ骨を持っていてご機嫌な顔です。

 銀座三越
 https://mitsukoshi.mistore.jp/store/ginza/index.html;jsessionid=d_BefXLeh5cr9bqaJBDE_aBCpPTpmB_KD_DAxoXA41wYjMD1_uwn!-337862802
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ガラス絵の重なり

2018/07/01 01:03
 ペン画を中心とした展覧会ではありますが、数年前から始めたガラス絵もテーマに合わせて去年までと細工を変えたものも制作しました。
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 正面からの写真だと分かりにくいのですが、斜めからアップで写すと本物の印象が分かるかもしれません。
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 二重になっているガラス絵です。鑑賞する際の最下層には、紬をあてています。
 時間や空間を超えた、心理的な現実の多層性をテーマとしているこのシリーズにおいて、ガラス絵はそのままやっても素材の特性が活かせるのではないかと閃き、試みています。おかげで撮影が難しくなりましたが、その分現物をご覧いただければと思います。
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さかいめに名前はあるか

2018/06/27 01:14
 役者が演じる舞台を描きたい、というのが近いでしょうか。
 あちらとこちらを隔てるものであり、「さかいめ」を意識させる、しつらえそのものに取り組んでみたくなったのがきっかけで、今年に入ってから何度か古民家を見学しに通っていました。勿論スケッチもします。
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 元々時代を経てきたモノは好きなのですが、そういう趣味とはまた別にテーマとしての興味です。古民家にはさかいめの曖昧さを上手く取り扱っている部分が多いのです。
 個人的には、金継ぎからヒントを得て数年前から始めたコラージュシリーズ、「よびつぎ」もそれぞれの版画、意識の垣根を超えるテーマでスタートしたものでしたが、反面、むしろ別々であることを強く意識させるような部分が現れました。何かと何かは容易には混ざり合いません。
 それでもよびつぎシリーズは、初めてご購入していただくことも多く、新たな出会いが続いたという現実もありました。偶然とは思えない、まさに作品が「繋いで」くれたような心地です。
 去年集中的に取り組んだ、蜘蛛の巣を描いたシリーズも、ここではなく、あちらでもない、ちょうど「間」に棲むもの、番人としての非人間的な存在としての野生へ着目して制作しました。明確に覚醒した状態の厳格な意識が、区切って分断するものに対する幼稚性の反逆でもありました。また、蜘蛛は紡ぐものでもあります。偶然と必然、寓意と自然が渾然一体となっていましたが、このしつらえによってそれぞれが配置についてきた印象です。まだまだ暴れ牛ですが・・・。
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 断つ、繋ぐ、破る、超える、隠れる、現れる、開ける、閉める・・・。さかいめは様々な相反するものを同時に含みます。簡単に言えるのに、豊かな含意があると感じています。小説家のケルアックはそういうタイトルをひょいと付けるのが巧みだったらしいですが、彼ならこれをなんと名付けるのかな。
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2018/06/23 01:34
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 来月の個展で飾るペン画では最大の作品、完成しました。「栖(すみか」というタイトル。
 スケッチした雉を中心とした、「鳥」に焦点を絞って描いた作品です。
 山道で不思議な屋敷にたどり着いた、という男の昔話「見るなの座敷」から受けた印象に近づけたと思います。
 テーマは、鳥がきっかけになっています。目の前の鳥でありつつ、日常と非日常の合間を行き来する存在としての、それでもあります。
 人が魔法で鳥にされたのではなく、鳥が人に化けている、という昔話の面白さは、例えば自然と人間の関わり方を考えさせます。広い意味では人間も自然の一部です。しかし人間は、いつも自然そのものにはなれない、と昔話の中では語られます。自然は自分から近づいてきつつも、その正体にこちらが気づいた時、即座に別れがやって来ます。
 その一瞬の邂逅が美しい物語として残ったのでしょうか。
 自分から見て、巨大で、何やら謎めいていて、麗しく、そして恐ろしいものと触れ合う瞬間がある、ということの非日常性。
 鳥は鳥人は人として暮らしつつ、昔話が語られる度にまた出会うのかもしれません。

 最大とは言えF8ですが、今年から始めた新作ペン画。初めて発表します。どのように受け止められるか今から楽しみです。
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材木流木考

2018/06/21 02:03
 浜辺へ。眼鏡をすり抜けて、眼球に滑り込んでくるような砂混じりの強風を、かき分けながら進むと流木の墓場のような開けた場所。誰もいない。ここは秘密の場所にしよう。
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 ところでこの砂浜、本当に流木しかないのかというほど他のものがない。そういう浜辺なのかそういう日なのか。それはそれで潔いけれど、少し不気味。
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 材木が漂流し、自然に侵食されているものに惹かれます。一方、漂流してきた流木に対して、燃やす、折る、磨く、などの他者が後から手を加えたものと浜辺で出会っても、自分の収集の対象には全くなりません。流木カービングまでいくと、それは作品として鑑賞出来るけれど、それとはまた別の話として。
 「自然と人間の関わりから生じた存在」という部分は共通点があるのだが、この違いは何なのだろう。
 前者は材木として成型された際に漂流することを想定していない分、当初の目的、ひいては人間の思考や思想からの自由さがある。無作為によって美に至っている。波と砂と太陽の偉大さを思い知らされます。後者はそもそものそういう大きな大きな自然に対して、ある作為を加えて、今の状態に貶めた、という不自由さに冷めてしまうのです。枠を不用意に狭めることのつまらなさ、と言い換えてもいいかもしれません。
 翻って、自然と人間の作為を人間の表現行為に当てはめて考えるとどうでしょうか。そりゃあ自然の方がいいだろうということはもう間違いないと思うわけなのですが、そもそも自然の中で出会ったものは表現なのでしょうか。これらは同じ土俵で語ることが出来ないような気がしています。自然の中で美を目の当たりにしたとしても、「自然の方がいいだろう、というそのこと自体の感じ方」を表現するということは常に残されています。自然は何も感じませんし、考えません。だからこそ恐ろしく、また美しいのですが。
 そんなに簡単に、自然がいいのだから何もしなくていいではないか、とはならないところに作家の仕事があると信じたいと思いつつ、流木で重たくなったカバンを背負って帰路に着きました。
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紬との再会

2018/06/18 00:24
 その時に取り組めるテーマと、それに合う素材との出会いには時間差があることもあります。
 テーマがあって素材を探し、制作に移る、というのはきっと誰もが想像し、納得する分かりやすい作家の制作活動の説明なのだと思うのですが、作る側の気持ち、少なくとも自分の場合は少し違います。ズレがあるというのもしばしば。
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 例えば、先日額装したペン画にコラージュしているのは、以前(6年前!と指摘していただきました)自分が気になって仕方なかったので、収集しておいた小千谷紬。その時に現在のテーマが明確にあって、それに使用しようと考えていたとはとても思えませんが、だからと言って全く無関係でもないようにも思います。要するに、考えて何とか説明出来る範囲を超えた部分が、その選択に関わっている気がします。
 テーマ自体の捉え方自体が、自分は、先に絵があって、その後それが何か把握して、徐々にまた先に進むというやり方なので、その辺は素材にも当てはまるのかもしれません。
 何故その素材が気になるのか。それが自分の制作にどのようにフィードバックされるのかが、入手した時点で曖昧なことが多い。この曖昧さは、混乱であると同時に可能性でもあります。耐えてじっくり取り組んでいくとある時に別々の路を通ってきたものが、合流出来る幸運に立ち会えるようです。
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べべ着せて

2018/06/15 13:41
 最近はペン画を中心に制作。このペン画は雁皮紙という繊維が短く細い、襖紙としてもしばしば使用される和紙に、ミツロウなどをほどこしたものを下地にしています。
 また、紬、という絹織物をコラージュして併用しています。それは手で撚りをかける為、複雑に絡まりあい独特な節の多い糸になるのが特徴の絹織物です。耐久性に優れ、古くから数代に渡って着継がれたそうです。
 それを中心に今までのガラス絵や銅版画にも一工夫加えながら展覧会を目指しています。それらの額装はいつも結構頭を悩ませる部分です。ごった煮のようなカオスなアトリエから逞しく育った作品達。いいべべを着せて、子ども達を檜舞台に立たせてあげたい、という親心のようなものでしょうか。
 壁に掛けながら日々眺め、時々もっとこうした方がいいと思いついたり、なかなか決まらなかったりと展覧会のぎりぎりまで粘ります。用紙をマットの額装という今までの銅版画のシンプルなスタイルだけではなく、パネル仕立てのペン画が多いので更に1点ごとに合う合わないにこだわってしまいます。
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 見た目に大きく影響を及ぼし、作品の一部になってしまうと言っても過言ではないので、やはりそこもおざなりには出来ません。でもこういうところも含めて展覧会をお客さんと楽しめるというのも作家の面白いところです。(ほとんどほんの少しの工夫には気づかれませんが・・・。)

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福福堂15周年

2018/06/12 01:56
 大学院を出て、コンクールなどに出品しつつ個展をやっていた時に、たまたま新聞で見かけて応募した浦和伊勢丹の展覧会。そこから8年来のお付き合い。ギャラリー上原(福福堂)の岡村さんは、そのお人柄から、作家やコレクターにこよなく愛されています。このたび15周年ということで、作家主催の祝賀会。基本的には引きこもって作品を作るのが得意な作家連中が、40人以上も出てきて岡村さんを囲んだことが何よりの愛の証。地方から駆けつけた方々の顔ぶれも。
 学生の頃は、「場所を貸すのでご自由に」という雰囲気のギャラリーとの付き合いが多かったせいで、そういうものだと思っていましたが、福福堂と関わってからイメージが一新しました。具体的には、作家と画廊が協力して展覧会を企画し、作品をお客さんに届ける。そして画廊は作家の才能(一言で言うなら結局こういう言葉になってしまいますが・・・。それは割と総合的な力かも)を見出し、現場で育てていく、というイメージです。それを知ってからは、作家として場所を借りて絵を飾る、という一方通行的な展覧会は1度もしていません。先にお金を払うのが嫌なのではなく、そういう風な気持ちの変化からです。
 実際に作品を、日常的に生み出していく作家がいなければ、そもそも展覧会は成立しません。これは確かな事実で、良い作品ありきです。
 しかし次にそれを社会に出して、趣味の発表会ではない、プロとしての展覧会を開催するには、見に来てもらう全くの他者の目が必須なのも大切な点です。そしてそういう部分の関わりは作家には不慣れなことが多いのもまた事実。私は何時間も誰も来ない画廊からの帰路、あまりの虚しさに、涙が落ちたことがあります。そういう関わりの失敗によって、世に作品が出ないこともかなり多いのではないかと思います。それを先回りしたり、注意深く見守りながら、展覧会を成功するように導いてもらう。
 二人三脚と言うのはちょっと憚られます。実際はこちらがいつも助けていただいています。毎回の展覧会で、徐々に手応えを感じられるようになってきたのはお客さんと、この福福堂岡村さんのお陰です。改めて感謝。

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蔓の歩み

2018/06/09 00:50
 今年もゴーヤと瓢箪を植えました。
 蔓植物はモチーフとしても惹かれるものがあり、時折作品に登場します。その場所で自らの蔓を振り回して、触ったものを手繰るように成長していき、その道中の様々な枝分かれの中で、葉を茂らせ花を咲かせ実をつける。 
 立派な大木が近寄りがたいほどの神々しさを持ち、人間離れした存在を感じさせる為に、信仰の対象となったりするのと比較すると、蔓植物はなんとなく頼りなげ。一方凄いスピードで伸びていく姿を毎日見ていると、最低限の細さの茎で、シンプルに、都合のいい場所を確保するという戦略が見えてきます。いつまでも細いままだからこそ、逆説的に強風を受け流すしぶとさもある。自らの力だけではなく、環境を利用し、したたかに生き延びていくところは、まるで人間。いや、それよりずっと賢く、迷いがないかもしれない。そして、いつの間にかこんもり茂り、見上げるような大木と同じような高さに成長してしまいます。
 大木の、ゆっくり時間をかけた「確かな成長」とは印象が異なる蔓植物のそれを、「前進」と言い換えてみるならば、彼らはまるで上へ向かって歩いているようですね。止まることのない歩み。そのスピードは、目に見える生命力そのもの。唐草模様が歴史を超えて愛されてきた所以ではないかと思います。
 去年はガラス絵で随分ゴーヤを描きました。朝顔も。今年は瓢箪も描けるか。
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 明け方、早速瓢箪の花。
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四角い竹籠

2018/06/06 00:45
 骨董が好き、というわけではないのですが、古いものの中に強く惹かれるものが時折あります。そういうものをぶらぶら見るだけでもそれなりに楽しめるので時々骨董市へ。今回は町田天満宮がらくた骨董市。実はこの骨董市は毎月1日にやっていて、たまたま先々月に行ってみたらいい籠が安く手にはいったのでその追加が主目的。
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 この写真のお兄さんの、奥の籠。要は業者さんの運搬用の籠。誰も見向きもしないけど、これがいい。
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こういう風に額やパネルを整頓出来るのです。丸い籠だとこうはいかないです。隙間出来ちゃいますし。軽いし、柔軟性が高く、丈夫。そして見た目も良い。つい4つも入手してしまいました。
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個展に向けて銅版画も。蜘蛛の巣が破れ障子に・・・。
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描くことの名

2018/06/03 14:07
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 雉をいただいたので描く。
 まず単純に描くのが好きなので、自分だけのメモ代わりに絵を描いておこう、という楽しみがあります。そういう場合は「スケッチ」という言葉がなんとなく浮かびます。最も軽い気持ちで取り掛かる故に、枠をはずすようなある種の自由度があり、普段の作品では気がつかないものに出会ったりと、発表する制作の補完としての大切な場所を占めます。「デッサン」や「クロッキー」なんかもこの中に入ると思います。
 次に、こういう偶然の出会いの中でも、その時の自分の感覚にぴったりくる場合は、その感覚を確認します。手を動かしているうちに働いてくる部分があるのですが、そういう時は単なる楽しみやメモの「スケッチ」からもっとこれはなんなのか、をはっきりさせようとする「ドローイング」という心持ちになります。必要部分の意識的なメモです。それを絵に描くことでどういう風になるかの逆算が、自分の場合はこの辺りから徐々に出来るようになります。
 その中から更に踏み込んで何かを表現したい、という気持ちが高まった時に「エスキース」という段階に移行します。「作品」をつくるため、という確固たる目的がある状態の最終確認です。整理して、取捨選択する段階。ここが結構難しく、ここまできてボツになるものも沢山あります。でもこれをやっておかないと作品を支える土台が弱く、途中で挫折してしまう可能性が高まります。理想は、「エスキース」を終えた時に、頭はすっきりと冷静だけれど、制作に取り掛かる心は、待ちきれないほどにわくわくしていことです。
 描く絵は色々段階があります。入れ替わったり、順序もばらばらだったり飛ばしたりとケースバイケースなので曖昧ですが、飽くまでも自分の場合の区切りです。まだまだそれぞれの段階に創意工夫の余地があります。
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SNSのメモ

2018/05/31 01:11
 再来月に銀座三越にて個展が決まったので、それに向けた制作を進めています。
 相変わらずの制作の日々で、つい書き忘れてしまうこのブログですが、もう少しやっていこうと思います。作品を楽しんでくれる方に、こんな感じで作品が生まれていますという報告と、自分のやっていることをちょっと離れたところから整理してみるという理由(アトリエに一人だと、制作のリアクションをくれる相手が展覧会までずーーっといないのです)で、SNSも少しずつやっていこうかな、という気持ちです。
 そんなわけでひとまずTwitterも始めました。ここを読んでいる数少ない方で、Twitterをやっている方は勝手にフォロー歓迎です。作品画像や、マニアックな舞台裏、日々のことなど気楽にアップしていく予定です。
https://twitter.com/SaitoYukiHone

 さて、今年からずっとペンで絵を描いていました。雁皮にペン。少しずつ工夫しつつ継続中。
襖、蔓植物、雉、など。
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 銅版画も、その隙間にやってます。
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分かることと、初夏の展覧会

2018/04/30 00:55
 「きっかけ」はくる時は一気にくるということがまぁまぁあるように感じます。特に今年に入ってから、制作したいと思うテーマがなんとなくまとまって出てきたのと、新たな素材表現との出会いのタイミングが重なって訪れ、自分としてはアトリエに籠っているのが楽しいやら忙しいやらで、すっかりここに文字で残しておくのを後回しにしてしまいました。展覧会がなかったという現実も手伝っていますが。
 この辺りの事は自分にとっては微妙なところで、早く文字にした方がいい時とそうではない混沌とした状態の中、掬い取る感じで徐々に作っていきつつ、振り返ってから整理した方がいい時があるように思います。
 ただ、テーマにせよ素材にせよ、全然知らなかったわけではない「顔」なのも興味深いところです。繰り返しているわけではないけれど、懐かしい、そんな「顔」。
 イメージは時空をやすやすと超えてゆく。1点の作品、あるいはその時点で取り組んでいた制作を前にした時に「考える事思う事」は、その瞬間と10年後とは異なっています。作品や制作はそこにあったはずだから、それはそれを受け取る側の心の多層性を表しているのに違いないわけですが、そういう体験は作家にも見る人にも同じように訪れます。なので、作った時には何故これを作ったのか分かっているようで分かっていない、あるいは分かってはいなかったな、と後で分かることもしばしばで、それは後でより深くその作品を捉えられるようになったという意味では作家として(単に人間として?)の成長なのかもしれないけれど、それに先んじて作品がそこに存在していた、という場合、まるでその時には自分ではなく何か別のモノが描かせたかのような不思議な思いが浮かぶのです。
 一言で言うならば、自分がいつか作ったあれ・・・それは今こうだった。という感覚です。その瞬間頭が凄くすっきりして視界が開けたような心地になります。ずっと制作してきて良かったと思うのはこういう事を肌で感じられる瞬間でもあります。
 さて、展覧会のお知らせです。
 5月はふたつ。全て旧作ですが、いろんな時期に作ったものを年代を超えて並べてみようと思います。見損ねた作品がある方は是非この機会にいらしてください。
 
「ザ・美術骨董ショー2018」東京プリンスホテル
5月1日(火)〜5日(土)午前10時から、初日は 午後6時まで。最終日は午後5時まで。それ以外は午後7時まで。
 スタッフ兼作家として出品しています。


「骨のあるアート」伊勢丹新宿本館5階=アートギャラリー
5月9日(水)〜13日(日)午前10時半〜午後8時。最終日は午後6時まで。
 骨を中心とした作品を出品予定です。
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 どちらも毎日会場にいます。
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小村雪岱展

2018/02/27 00:44
 川越を歩き小村雪岱展へ。彼が生まれた町とどれくらい変わったのだろう。
 作品の色彩や人物の表情に派手さはなく、むしろ地味と言ってもいいものなのに、一度見ただけでなぜか記憶に残る絵で、もう一枚見たいと思うような作家だと思います。削ぎ落としている描写とよく練られたであろう構図。なかんずくその「間」はズレのようなものを意識的に取り入れていて、アレ?と感じまんまと足を止めてしまいます。この辺り、画壇で伝統的な日本画として発表していた当時の作家とは違い、新聞の挿絵や本の装丁で仕事をしていたことが関係しているのかも。さあ絵を見るぞ、という気持ちで絵の前に立ってもらう環境ではない、不特定多数の生活している他人の目を数秒留める為の工夫は、並大抵のものではないはずです。声高に言えば疎まれ、声が小さいと聞こえません。語り過ぎれば混乱させ、口数が足りないと理解できません。そしてその失敗は、作家の責任として生き残りに直結してしまいます。
 そういう現実に迫られて、試行錯誤を繰り返した末の、個人の一手一手の仕事が輝くという凄さ。その我慢強さと柔軟な表現は、個人と社会との摩擦の中でより一層生き生きとしていたのではないか、と思わせるたくましさがあります。
 逆に仕事を依頼する側の心理としては、この作家のそういう「感覚」にこそお金を払いたい、ではないでしょうか。まさに代えのきかないニーズなんだろうなと感じさせてもらった帰路でした。

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/artmuseum/tokubetutenji/toku-index.html

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風に吹かれて

2018/02/12 23:41
 浜乞食。
 ほんの少し暖かい日が続いたせいか、浜辺には同じような事をしている人が大勢いました。
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 黙々と歩くだけでも相当満足度は高いのですが、気になるものが時々あってそれが拾えるというのもやはり大きな魅力です。アンテナ立てて瞬発力で拾う。クロッキーしている脳と似た処を使っていないかと思う。少し違う気もする。不思議な領域です。
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 今回はこんな感じ。小型の流木でいいのが多かった。人が加工したものがまた半分くらい自然に侵食されたようなものはそれだけで強い存在感があります。陶片。それぞれ角があったり丸かったり、元の模様が残っていながら消えかけているその状態が美しい。
 何年にも渡り浜乞食活動を続けていますが、何に惹かれ、それが自分にとってどういう魅力として感じられているのかという事が以前より強く意識されてきているのを感じます。
 
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トンビが風に吹かれていた。
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