猛暑のパネル作り

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 雨乞いに応えるような猛暑の土砂降り。災害にならないいい塩梅くらいに降ってくれるとありがたい。雨が滴るのを眺め暑気払い。台風で秋風が吹いたかと思った矢先にまた暑さが帰ってきました。  今日は秋から年末にかけて制作する予定の、ペン画のパネル作り。
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 パネルは、ある程度事前にまとめて作っておきます。アク止めの糊で薄い和紙を貼って、板のアクが万が一にも作品に染みないようにしています。乾燥後、端っこをカットします。その下地を作った状態で、更に上に紙を貼り、その紙に雁皮を貼るという工程を経て、ようやく描画の準備完了。そこからペンを使用します。このパネルの段階も「絵を描く」ということの大切な一部です。
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 ジュズダマいただきました。薄い茶系の色は一粒として同じ色がない。  季節感あります、ありがとうございます。

銅版画と植物の間で

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 最近ほっておいたクワズイモがふと見ると種をつけていました。花はよく見かけるけれど種まで見れらるのは珍しい。植物が身近にあると、お~毎日生きてるなぁと感じ、その成長に元気をもらいます。  アトリエではここ最近はずっと銅版画を数点制作しています。  構図は先に決めてあったので迷わず、版も順調に、そして刷りで長考・・・。未熟なので、なかなか全ての工程が淀みなく、とはいきませんね。  刷りに入って何十回と同じ所作を繰り返す間に、迷ったり飽きたりしない為に、自分が納得出来る版の作りと、刷り方の決定を迫られます。厳しさが、結果的には気持ちの余裕を生むことが多いので、新しい工夫や挑戦の為にも、目の前の版や刷り上がりの状態に妥協は厳禁。
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 障子に映る蔓植物の影に、熱くなった頭をなだめられ、また版に向かいます。

蔓の歩み

 今年もゴーヤと瓢箪を植えました。  蔓植物はモチーフとしても惹かれるものがあり、時折作品に登場します。その場所で自らの蔓を振り回して、触ったものを手繰るように成長していき、その道中の様々な枝分かれの中で、葉を茂らせ花を咲かせ実をつける。   立派な大木が近寄りがたいほどの神々しさを持ち、人間離れした存在を感じさせる為に、信仰の対象となったりするのと比較すると、蔓植物はなんとなく頼りなげ。一方凄いスピードで伸びていく姿を毎日見ていると、最低限の細さの茎で、シンプルに、都合のいい場所を確保するという戦略が見えてきます。いつまでも細いままだからこそ、逆説的に強風を受け流すしぶとさもある。自らの力だけではなく、環境を利用し、したたかに生き延びていくところは、まるで人間。いや、それよりずっと賢く、迷いがないかもしれない。そして、いつの間にかこんもり茂り、見上げるような大木と同じような高さに成長してしまいます。  大木の、ゆっくり時間をかけた「確かな成長」とは印象が異なる蔓植物のそれを、「前進」と言い換えてみるならば、彼らはまるで上へ向かって歩いているようですね。止まることのない歩み。そのスピードは、目に見える生命力そのもの。唐草模様が歴史を超えて愛されてきた所以ではないかと思います。  去年はガラス絵で随分ゴーヤを描きました。朝顔も。今年は瓢箪も描けるか。
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 明け方、早速瓢箪の花。

花喰鳥

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 制作中に換気で窓を開けると、蝋梅の香り。  雪が降った日に落葉し、蕾が開いていく様子が毎日よく見れます。枯れた庭の他の植物はこの時期は専ら引き立て役に回ります。個人的に目にも鼻にも喜びを与えてくれる木で立春過ぎても寒い春までの楽しみのひとつ。いい名前を付けたもの。  ピーヨピーヨ!とホイッスルの様な大きな声がやけに近くで聞こえるなと思い窓の外を見るとヒヨドリ。赤い頬が分かり易く、こちらに気づいても窓を開けない限り逃げず蝋梅をついばむ。農家では害鳥らしいけれど、1羽くらいなら木も鳥も同時に見れるし、いいかなとそのまま愛でていました。そう言えばこんな吉祥文もあった。  ところで去年も同じように蝋梅は咲いたけれどヒヨドリは果たして来ていたのだろうか、気づかなかった。そして鳥に精通し、里山の林を作る活動をしつつ鳥の写真を撮っている知り合いが、ぱっと遠くの野鳥を肉眼で見つけ、ほらあそこ。と言ってくれたけれどなかなか分からなかった事を思い出しました。アンテナが立っていれば容易くチューニングが合うものが、そうでないと突然気づいて驚いたりします。メーテルリンクの青い鳥のようにこちらのスイッチが入った時初めて見えるものだらけなのかもしれません。
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  鳥、すぐに見つかりましたか?

窓を創る

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   昼下がりの窓からのお気に入りの景色。
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 夕まぐれの同じ窓からのお気に入りの景色。  背筋が伸びるような特別な庭ではなく、何となく自然な雰囲気が落ち着きます。  季節柄、日々変わりゆく表情もまたいい。これが無く、例えば向かいの建物の壁やらだったらと思うとやはり物悲しい。窓からの風景は毎日何気なく見て意識下に沈んでいくような、緩やかな影響を人間に与えるものと思います。でも毎日ちょっと気持ちいいと思うのとそうでないのとでは積もり積もるとなかなか深刻な違いになりそうでもあり、少し怖い。  この時期北側に面した部屋は昼でもとても寒く、時々コーヒーカップ片手に本を読む為わざわざ部屋を移動して背中に太陽を当てないと居られないくらい。読書タイムはまるで光合成。  代わりにその部屋の長所は植えてあるものがこちらを向いていること。樹々は南側を向くので当たり前ですが、南側の窓からは彼らの背中を見る事になってしまい、北側に面した部屋は庭の鑑賞に話を絞るとまあ言ってみればいいとこどりなのです。  けれど特筆すべきは高さ間隔、種類など相当デッサン力の高い方が考えて造園した結果楽しめているということ。見た目の美しさと自然としての無理のなさ。しかも四季を通して。凄い。ありがたい。  いつでも見られるわけではないものだから、こんな庭が広がる窓を壁に飾りたいと思い、例えば作ってみる、とその瞬間入り込む何か。  造園家の場合主役の樹々より自分自身が見えて来ると失格でしょうですが、自分が「受けた感じ」を「見たもの」から分離出来ず、そこにこだわってしまう人間は主客一体の表し方を工夫しないといけない必要に迫られます。    昔読んだソローの「森の生活」の中で大農園を持っている人の家に泊まった詩人はその風景を詩にすることで、一晩でその大農園を、大金持ちの主よりもお金も時間もかけずに自分のものにしてしまいましたが、庭が造れないのなら、せめて本人にも他人にもぴたりとくる窓には何度でも遭遇(!)したいものです。

僕は草

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 タイトルは展覧会のタイトルの一部。国立駅へ、10代の頃からの付き合いの高橋学説氏の個展を見に出かけました。  大学時代の通学区間だったので懐かしいとは思うけれど国立駅自体はここ数年で工事が進み随分印象が変わりました。先日多摩美の芸祭に行ったときにも通過した母校の駅近くもかなり風景が変わっていました。久しぶりに見ると、知っていると思っていたものの予想を裏切る変化に驚くこともありますが、彼の久しぶりの個展はどうなっているかなと思いながら向かいました。  記憶では、作品点数は今までの彼の個展史上最も多く、また大小並んだ作品もギャラリーの空間と合っていて近年の彼の制作テーマに沿った作品たちを一堂に見られるいい展覧会でした。グループ展でぽつぽつとではなくある程度まとまった個人のショーとして見せられると作家のひとつの問あるいは答えとしての説得力を持ちます。個展をすることの大きな意味だと思います。アートイマジンギャラリー27日まで(http://www.art-imagine.com)。  今回は今までの傾向と違った質感を持った新作があり、興味深かった。今までの仕事の質も上げつつ新しい展開も取り込んでいく。そういう動きはものを作っているとなんとなく分かるような気がします。  彼の家できのこ鍋をいただきながら奥さんと3人でほとんど作品や制作の話。明け方まで話が尽きない。  新しいことに挑戦するのは今まで大切にしてきたものを捨て去ることでもありますが、本当に手放せないもの、まだ捨てたくないものを地面に落とさない為でもあるのかもしれません。しっかりとした重さと質を確かに感じ、気に入っているものは捨てるのは覚悟がいるだろうけれど、捨てた時の自由もまた大きいのかもしれません。  浜や山歩きをしていて、気に入ったものを両手に2つ掴んだままだと新しいものを掴みづらい。これはいいや、と片手を手放すと同時に代わりに、と新しいものを掴む瞬発力を頼りに歩くときもある。袋を使わないときはそれ自体緊張感があって楽しい。誰かの手を借りて3つ無理矢理抱えてみると、自分の足元が見えなくて転びます。
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 庭のマグノリアの黄色が青空に映えている。季節によって見かけの姿を大きく変え、また来年似たように黄色い葉が見られるはずだけれど、その葉は確かに今年の葉ではありません。大きく変化を見せながら目に見えない速度で全体が成長しています。

植物と雨

 降る降ると天気予報が言っていたのに昨日はしっかりと降らないまま。今日になって、雨が降る前の匂いがすると思っていたら土砂降り。毎日夕方に降ってくれれば寝苦しい夜を過ごすこともないのですが、空は偏りのある采配をします。  アトリエの植物を外に出しました。葉水したほうが調子のいいものを出し、続いて小さい連中も水浴び。心なしか外の木々も活力を持って見えます。植物に興味を持ってからというものしばらくぶりに雨が降るとこちらまで気持ちいい。シンクロしてきたようですが、声が聞ける境地まではまだまだ。  地下深くから水を汲み上げ空へと返す。植物の循環はダイナミックです。  以前ヨガをやっている知人から座った時に会陰から眉間へと蛇を通すイメージを持つんだと教わりましたが、自分が樹木になり、水を汲んで身体を通し吐き出すイメージと似ている部分もあるのかなと思います。
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 まず根を出し、それがしっかりと大地に食い込んでから芽を伸ばします。必ずその順番。  先に人の見えない暗闇へと育ち、ある時反転して太陽へと伸びて人の目に触れます。芽が出てからも地上と地下の領域を同時に成長させつつ大木になるというのは自然の摂理なんですね。  根は影の中から水分を汲み上げては人の目に見えない水蒸気として空へ。葉は光を養分に変え自身に取り込みます。根がはれないと自重を支えられずに倒れ、葉が茂っても光の条件が良くないと栄養不足で個体維持ができない。  ・・・何だか植物だけに当てはまることとは思えませんね。

水の容器と本

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   柔らかい雨に包まれて紫陽花が咲きました。紫陽花は英語では水の容器という意味。なんとなくそそる名前ですね。妄想が膨らみます。    窓の水滴を眺めていたら柄澤齊さんの「水の本」という1枚の作品を思い出しました。水滴が文字のように並んでいる木口木版の作品。  博識な大人のバックボーンで支えられた子供のように軽やかな発想を息を飲むような技術でさらりと表現される姿に惚れ惚れ。本や文字で表された物語や神話伝説宗教など人間の思想が版画のかたちを借りて一目で飛び込んできます。高校生の頃から変わらない憧れの作家です。  幸運にも学生の頃に1日だけ大学に公演会でいらしたことがありました。本と版画について、どちらも個人で収集して掌で愛する事ができるものなのだとおっしゃり、自分が出版される本や版画にこだわるのは手から手へ渡るものをなくさないためのある種の抵抗なのだと熱く語られていました。    見えない妄想を他者の目にもありありと見えるようにできるのが優れた作家の条件のひとつだと思いますが、思想を表現するために練られたイメージと完璧にコントロールされた手から生まれる作品は、まるで生まれたばかりの初々しさと神秘を纏い、拙さいやらしさ重苦しさとは無縁。イメージとテクニックが深い場所で結ばれているように感じます。作品と作者のこういうふうな結びつきというものがあるのかと今でも印象に残っています。

部屋に吹く風

 寒くも暑くもなく、ちょうどいい湿度。日中部屋の窓を開け放って制作をします。  梅雨に入る前、部屋を吹き抜ける風が心地いい季節です。紅白の薔薇が道にこぼれるほど毎日咲きます。
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 なるべく窓は開けておきたい、外と中が繋がっている状態の方がなんとなく心が落ち着きます。締め切った部屋に長時間は辛いけれど常に窓全開というのは現実的に難しいので、音楽やコーヒーで密室をごまかすことになります。以前いたアトリエはドアも開けていたのでよく猫が入室して勝手にくつろいでいました。  風の入る窓の近くに一人で座ってぼうとしながらコーヒーのつまみに外の景色や画集を眺めたりするのを楽しみにしながら制作をします。まあ大抵普段からぼうとしているのですが・・・。出かけない時はだいたい毎日同じような日々。  制作は作者の中では浮き沈みがありますが、傍から見ていたらぼうとしているかごろごろしているか思いついたようにずうっと描いているかほとんど気まぐれに遊んでいるように見えるかも知れませんね。    メキシコで本を出版したという哲学者の方と今日お話しましたが、哲学者は自分の学びたいことのために嫌なことも一生懸命勉強して糧にするけれど、作家は好きなことを野生的に探りものをつくると指摘されました。  やっている側からするとまあそういう作家ばかりではないだろうと思いますが、「やっていて気持ちがいい」がものをつくる上で占めている割合も侮れないのではないかという実感はあります。(仕上がりや見た目が心地いいとかいう話とは別です。行為そのものについてです。)  しかも経験から言うとそれが本当に一線を越えた「気持ちいい」になると作品が結果的に生き生きするようなものになっていったという気もします。あまり自分が乗っていないと作品にもそれが出てしまう。怖くもあり、愉快でもあります。 

見知らぬ花

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 去年の秋口から育てているクワズイモの葉がすくすく増えて倍くらいの枚数になりました。思い付いたように中心部から茎のようなものを出したと思うとそれが開いていき葉になる。  ある日同じように、けれどいつもと少しだけ違う様子の茎が出てきたと思っていたら、その中にフードを被ったような花が咲きました。茎の延長のごとき地味な花で突然対面したので何が起こったのか分からず一瞬動揺。花だと分かるのに間がありました。  見た目は大して美しくなくとも、毎日育っているのを見続けてだんだん力を蓄え、ついに咲いたかと思うとささやかながら嬉しい。最近ではすっかり植物たちが制作の相棒然としています。  出てきたものから考えて作品を進行するということに図らずもなってしまうことが続いたので、逆に頭で計画を立て、その通りに身体を動かして無駄な動きをなるべく抑制して銅版をいじったらどういうものが現れるか。という事を見てみたいという欲望に駆られて作品を何点か制作しました。  しばらく見ていると作品側からの声を聞いていなかったように感じられてきて、聞こえてきたものからもう少し踏み込んでみようと思い直しました。押しつけがましかったので作品との距離が出来すぎてしまったのかもしれないと反省。    制作の中心に銅版を置いてやるようになってから、タブローを描いていた時にはそれ程考えていなかった計画性の大事さを知りましたが、それが学びになって意識して偏りすぎると今度は思ったほど遠くまでいけないようにも思い始めました。  計画の段階での詰めは大事だけれどその内容は、実際に表面化することよりも自分が何を大事にしているのかということをしっかりと確認するということなのだと思います。このように文字にすると当たり前なのですが、自然に出来ているときはすばやく通り過ぎてしまうことなので案外気付きにくく、そこから離れた制作をやったからそういう実感が自分の中に落ちてきたのかもしれません。直線的には成長できずぐるぐる。ぐるぐるがちょっとずつでも上がっていれば良いけれど。    作品達は最初に作者が期待した育ち方をせずに別のことをこちらに囁き始めたのでもう少し付き合ってみることにします。

つつじとかげ

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 玄関の躑躅に蜥蜴。「つつじ」も「とかげ」もなんでこんなに複雑な漢字なのだろう。どちらも珍しくもない連中なのに。  でも珍しくはなくとも毒々しいほどに満開に咲いた花の合間にひょっこり乗っかっているとおっと思う。蜥蜴が躑躅になんの用があるのかは知りませんが、なんとなく趣味で登ってみたぜ、という顔に見えます。
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 反対側にもう1匹。こちらは尾がなかった。  子供の頃、蜥蜴は尾を自分で切って外敵からまんまと逃げおおすという話を耳にしたときは興奮したものです。とりあえず見つけたら片端から捕まえて尾を切るか観察しました。捕まえ方に問題があったのか、置き土産をして去っていく気の利いたやつはいなかったけれど。  でもその頃から蜥蜴、好きです。しばらく尾は動いているから外敵はそちらに夢中、が本体はもう別の場所へ行っている。ちょっとぐらい身体はくれてやる、いつかまた生えるさ。ハードボイルドです。思い切った困難の切り抜け方ではないですか。かくありたい。

にわにて

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 寒い時期に仕込んでおいたものがにょきにょき。  そして
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成功。よく生えた。  チューリップってなにか幼いイメージが付いていて子供が並んだみたいに見えます。  庭について以前調べたときに特に西洋と東洋の相違点あたりに興味を持ちました。  以下は一般的な個人の庭にはあてはまらない部分もありますし、専門家でもないので勝手に感じた意見です。    人間が自然を制御下においてコントロールすることの美の象徴が庭である、そしてそれが巨大に隅まで完璧に出来ているほど素晴らしいというのが西洋の庭園づくりの底流にあるのに対して、東洋では人間の手でコントロールされていない自然を身近に持ってくるという考え方があるようです。もちろん手を入れないわけではなく隅から隅まで手を入れて「自然な感じ」を演出するわけです。不自然に自然をつくるというパラドクス。  前者はアリスの世界のような非日常の空間に迷い込んだような驚きを楽しむ、後者は素敵な自然を毎日見に行くのは大変だから、いつもの生活の中に持ってきちゃえという感じもします。  西洋と東洋の美術というものに対する価値の高さの置き方に似ている部分もあるような気がします。  どちらも細部まで気を張り巡らせて違う着地点を目指すというのも面白い。  制御できない雨や風や日差しなどの自然と、完全に制御された屋内空間の間にある「あそび」の部分が庭なんですね。植物が勝手に伸びたり鳥や虫がやってきたりするけれどこちらも刈ったり採ったり干渉できる境目。    どれくらい向こうからくるものの侵略を許し、どれくらいこちらが干渉するべきかということを考えるのは絵を描くことと似ていて面白いです。どういう庭が好きかということはどういう絵が好きかということなのかもしれません。