銅版画の制作工程(下)

https://mvwtenji.wixsite.com/mvw-hp/single-post/2018/10/19/%E9%8A%85%E7%89%88%E7%94%BB%E3%81%AE%E5%88%B6%E4%BD%9C%E5%B7%A5%E7%A8%8B%EF%BC%88%E4%B8%8B%EF%BC%89  これで舞台裏はおしまい。ここからは表舞台スタートです。  今回はヒマラヤ山麓の手漉き紙を使って仕上げました。新しく気に入った紙が、ちょうど良く作品にはまると嬉しい。こういう素材面での新鮮さというのは、作家本人にとって、フレッシュな感覚で制作を続ける上であるひとつのリズムを刻んでくれるようです。

銅版画の制作工程(中)

https://mvwtenji.wixsite.com/mvw-hp/single-post/2018/10/12/%E9%8A%85%E7%89%88%E7%94%BB%E3%81%AE%E5%88%B6%E4%BD%9C%E5%B7%A5%E7%A8%8B%EF%BC%88%E4%B8%AD%EF%BC%89  銅版画の制作工程第2回目。全3回です。削ったり腐食したり。同時代を生きている作家はこういうのをリアルタイムで公開したり、それについてあれこれ反応があったりするのが、物故作家には絶対に出来ないことですね。

銅版画のTP(試し刷り)

 MVWのブログの方に、銀座三越の際に出品した銅版画、「横ぎる雉」の制作過程を解説付きで1枚ずつアップしています。今回はTP(試し刷り)3まで。描きすぎて真っ黒になってしまった版を削り、再スタートするまでの流れです。  予想通り簡単に、とはいかなかった分、愛着もある作品です。それは私の、銅版画との出会いから現在までの格闘とも通じるところがあります。不器用ですが、愛着あるところに着地したいと、いつも通りの足掻き。上手く予想通りいかない、という通常運転です。 https://mvwtenji.wixsite.com/mvw-hp/single-post/2018/10/05/銅版画の制作工程上 上記、お手数ですが、工程上、という文字まで選択して検索してください。 もしくは、MVWのHPから、ブログ記事をクリック https://mvwtenji.wixsite.com/mvw-hp

猛暑のパネル作り

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 雨乞いに応えるような猛暑の土砂降り。災害にならないいい塩梅くらいに降ってくれるとありがたい。雨が滴るのを眺め暑気払い。台風で秋風が吹いたかと思った矢先にまた暑さが帰ってきました。  今日は秋から年末にかけて制作する予定の、ペン画のパネル作り。
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 パネルは、ある程度事前にまとめて作っておきます。アク止めの糊で薄い和紙を貼って、板のアクが万が一にも作品に染みないようにしています。乾燥後、端っこをカットします。その下地を作った状態で、更に上に紙を貼り、その紙に雁皮を貼るという工程を経て、ようやく描画の準備完了。そこからペンを使用します。このパネルの段階も「絵を描く」ということの大切な一部です。
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 ジュズダマいただきました。薄い茶系の色は一粒として同じ色がない。  季節感あります、ありがとうございます。

真夏に思うクリスマス

 リトルクリスマス版画展2018の作品を制作中です。今年のテーマは「芽生え」。去年までの作品を並べ、振り返ります。
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 第1回めからがっつり絡んでいるので、もう8年やり続けてきました。自分なりにあれこれと創意工夫し、前年度までにやってきたことの繰り返しにならないよう、何かしらの挑戦を毎年してきたつもりです。今年は銀座三越の個展で取り組んだテーマを延長し、銅版画にフィードバックしてみようと構想中です。  お楽しみに!

銅版画の試し刷り一覧公開

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 銅版画は刷りが段階的に残っていきます。こうして並べてみると何を考えて何をしたか、がある程度後から追跡出来ます。左上から右下へと順に移行していきます、始め、雉は尾を入れる予定がありませんでしたが、途中から出てきています。障子は始め全体が描かれていましたが、削りました。最後で、本刷り用紙を和紙へ変更し、更にロクタ紙というヒマラヤ山麓の手漉き和紙で完成。  この和紙はもうほとんどストックがないそうです。和紙屋の主人が、この10年で随分和紙事情は変わった、この先10年が怖いと漏らしていましたが、そういう和紙が、電車に乗って少し歩けば入手出来る国に生まれたことは幸運でした。レンブラントはわざわざ日本から和紙を取り寄せていたというから驚きです。  気に入った和紙があったら作品として残した方がいいよ、とも言われました。元来和紙が好きなので、作品に合えば今後も色んな和紙を試したいと思っています。
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 額装は和紙の耳を活かして、箱額です。

作品周り

 個展の搬入に向けての地味な舞台裏ですが、絵を描く以外の仕事も絵を描く仕事に含まれます。例えば黄袋はユザワヤで布を量り売りで買ってきて、それを縫います。
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 そして、注文する額に付属するのがほとんど合わせ箱(箱自体がバカっと離れ離れになるタイプの箱)なので、作品の出し入れがし易いさし箱(横の狭い面だけがぱかっと開くタイプの額)に改造したりしています。一人でやっているので、全ての作品まで流石に手は回っていませんが、せめて1点ものの中でも大きいサイズのはなんとかしたい・・・。そもそも箱がはじめから付いていないミニ額などはゼロから作りましたが。
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こういうのは、あまり作戦を練らず、ともかくやり始めてしまいます。やりながら改良。作りながら気づいたことをメモしたりしながら微調整していくのが常です。そうすると段々面白くなってきます。
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 手作りなので、アラはご愛嬌ということで。

べべ着せて

 最近はペン画を中心に制作。このペン画は雁皮紙という繊維が短く細い、襖紙としてもしばしば使用される和紙に、ミツロウなどをほどこしたものを下地にしています。  また、紬、という絹織物をコラージュして併用しています。それは手で撚りをかける為、複雑に絡まりあい独特な節の多い糸になるのが特徴の絹織物です。耐久性に優れ、古くから数代に渡って着継がれたそうです。  それを中心に今までのガラス絵や銅版画にも一工夫加えながら展覧会を目指しています。それらの額装はいつも結構頭を悩ませる部分です。ごった煮のようなカオスなアトリエから逞しく育った作品達。いいべべを着せて、子ども達を檜舞台に立たせてあげたい、という親心のようなものでしょうか。  壁に掛けながら日々眺め、時々もっとこうした方がいいと思いついたり、なかなか決まらなかったりと展覧会のぎりぎりまで粘ります。用紙をマットの額装という今までの銅版画のシンプルなスタイルだけではなく、パネル仕立てのペン画が多いので更に1点ごとに合う合わないにこだわってしまいます。
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   見た目に大きく影響を及ぼし、作品の一部になってしまうと言っても過言ではないので、やはりそこもおざなりには出来ません。でもこういうところも含めて展覧会をお客さんと楽しめるというのも作家の面白いところです。(ほとんどほんの少しの工夫には気づかれませんが・・・。)
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描くことの名

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 雉をいただいたので描く。  まず単純に描くのが好きなので、自分だけのメモ代わりに絵を描いておこう、という楽しみがあります。そういう場合は「スケッチ」という言葉がなんとなく浮かびます。最も軽い気持ちで取り掛かる故に、枠をはずすようなある種の自由度があり、普段の作品では気がつかないものに出会ったりと、発表する制作の補完としての大切な場所を占めます。「デッサン」や「クロッキー」なんかもこの中に入ると思います。  次に、こういう偶然の出会いの中でも、その時の自分の感覚にぴったりくる場合は、その感覚を確認します。手を動かしているうちに働いてくる部分があるのですが、そういう時は単なる楽しみやメモの「スケッチ」からもっとこれはなんなのか、をはっきりさせようとする「ドローイング」という心持ちになります。必要部分の意識的なメモです。それを絵に描くことでどういう風になるかの逆算が、自分の場合はこの辺りから徐々に出来るようになります。  その中から更に踏み込んで何かを表現したい、という気持ちが高まった時に「エスキース」という段階に移行します。「作品」をつくるため、という確固たる目的がある状態の最終確認です。整理して、取捨選択する段階。ここが結構難しく、ここまできてボツになるものも沢山あります。でもこれをやっておかないと作品を支える土台が弱く、途中で挫折してしまう可能性が高まります。理想は、「エスキース」を終えた時に、頭はすっきりと冷静だけれど、制作に取り掛かる心は、待ちきれないほどにわくわくしていことです。  描く絵は色々段階があります。入れ替わったり、順序もばらばらだったり飛ばしたりとケースバイケースなので曖昧ですが、飽くまでも自分の場合の区切りです。まだまだそれぞれの段階に創意工夫の余地があります。

オクルス

 庭で見かけた蜘蛛の巣を観察していて、作品を作ろうと去年末辺りから描き始めました。向こう側にある空が透けて見える、そのこちらとあちらの間に張られているということに興味が絞られてきました。
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向こう側にあるものが空から射す光ならば、それは「天窓」になります。ローマのパンテオンのドーム頂上部の、円形の開口部をオクルス(眼窓、円形窓)と言うのですが、それがイメージの下敷きになっています。考古学ではオクルスは西ヨーロッパ先史時代の芸術に見られ、一対の円形または螺旋形で、土器や巨石などによく見られます。それと巣に留まっている女郎蜘蛛の形態や、その構造との類似性には興味を惹かれます。  ヨーロッパでは神や女神の眼差しとして表されていると解釈されているそうです。中国では蜘蛛が喜従天降と言って天から吉事が舞い込む前兆と言われていることや、芥川龍之介のおなじみの「蜘蛛の糸」の中でも天国と地獄をつなぐ細いロープとしての役割があることなど、古今東西で共通する意味合いがあることと自分が気になった部分がリンクしました。  そういう象徴的なエピソードと実際の自然観察が現在の作品に繋がっています。  写真はビュランで直接銅版を彫った線と削りかす。
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残暑のアートと冬支度

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 夏のアート展終了しました。 https://isetan.mistore.jp/store/urawa/index.html;jsessionid=3ocyjd5KwniBVygy6LaR-uLxXxOJyf05NBXUWHa3BpyyChXcijVJ!-1912955461ご来場のみなさまありがとうございます。今回は会期中に二十歳の誕生日を迎えるという若い方が2度訪れ、新作のガラス絵を気に入ってお持ち帰りしてくれたのが印象的でした。若いということにも増して作品に向き合う姿勢、その独自のこだわりが言動から伝わってくるのが強い印象を残します。この展覧会はぎりぎりで決まったこともあり、ほとんどが通りがかりのお客さんでしたが、それでもふと気に入ってくれる方や、何度も足を運んでくれる方との出会いもありました。先輩作家の作品と並べて、会場でご本人と沢山話せたこともまた拙作を省みるきっかけとなり、個人的には収穫の少なくない展覧会になりました。  ほぼ平行し、アトリエでは今年のリトルクリスマス版画展のエディション刷りが終わり、乾燥が進みます。
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 せっせと刷る。エディション60部、作家刷り6部、贈呈刷り2部、計68部。失敗も計算して約80枚弱は一度に刷り切る。自分としては新しい試みに三椏紙を使いました。三椏はその名の通り枝が三つずつ分かれていくので「みつまた」と言うんだよ、と習ったのが大学生の頃。あの頃は今よりずっと和紙のことを知りませんでしたが、今もまだまだ。知識ではなく、版画の刷りを通して和紙と馴染むのが作家。水の湿しの加減を調整する為にプレス機のラシャ布と版の間に綿布を挟むというマイナーチェンジ。工夫が上手くいくと嬉しい。  我が蔵書たち重しとして活躍。年末をお楽しみに。
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エディションの刷り方

 まだ暑さが残っていますが秋の風。今年も全国で催すリトルクリスマスのための作品候補を作り、エディションを刷りきりました。エディションを刷るという制作は版画家を意識させる瞬間でもありますし、その版が刷るに足る質であるかどうか版に問われるようでもあり、刷り始めるまでじたばたさせられます。
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版が出来ると試し刷り。インクと和紙の色。色々。
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 インクは金と黒の2色。詰め分ける。
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 それぞれの色が混ざらないように拭きあげる。
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 雁皮紙を乗せて、糊を塗り見当に合わせセッティング、プレス機を回す。
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 刷り上げた作品を裏返して水張り。  以上を黙々と続けます。  全国の展覧会は来週福島からスタートです。  

seed leaves

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 葛の洪水のような空き地を横目に散歩するとまだまだ昼間の太陽の強さを感じます。小さな種から毎年溢れるように繁茂する生命力にはちょっと驚きます。  去年の3月頃から1年半かけて作家仲間と取り組んできた版画集「seed leaves」がついにed.も含め全て完成しました。
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 元々他人と何かを作るのが嫌いな性格なのですが、1人ずつがこだわりをもった作家で、お互いの作品を付き合わせて同じテーマに向かっていったら個人では生み出す可能性のない未知のものが出来るかもしれないと思い、仲間を募ったところ年齢も大学も違う作家4人が賛同してくれました。作家に恵まれましたが、後先考えずただ作りたいと思っての行動だったので、当然ゼロからのスタート。  とは言えそこは作り手。モノがあれば話が進みます。大まかなテーマとどういうカタチにするかだけを話し合ってすぐに作ったものを持ち寄り1号完成。それなりに魅力はあるけれどまだばらばらで荒削り。    版画集を作る上では、個人の作品が生きて機能しなければ意味がないし、かと言って個人個人が好き勝手主張していても烏合の衆になってしまうというのが問題です。グループ展にも言える危険性だと思います。これは若手でもベテランでも関係なくぶち当たる難問ではないでしょうか、しかし問題をかき分けていく中で出来てくる獣道もあるもんだなと作りながら感じました。2号、3号と推敲を重ねていきました。  また版画集を作る、ということから自分自身の制作にも影響が出ました。イメージをぽっかり浮かべたいということと、以前から感じていた制作段階での地平と発表時のギャップを埋めたい欲求が我慢出来ないほど膨らんできたということが重なった結果少しだけですが挑戦的なカタチが現れてきました。
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 何に見えるかはあなた次第。  全員版画家とは言え普段慣れた作品を慣れたカタチで出すのではない為、エディションは一苦労。全て決まって個人のエディションも出来てからさらに版画集として作り上げるのだけでも5人がかりでも何日もかかってしまいましたが、それぞれがかなり踏み込んだ表現として結実したと思います。一瞬交差点として集まって得たものをまた各自の個人の制作にフィードバックしていくのかもしれません。    テーマは萌芽。タイトルはこれから育つ子葉という意味の「seed leaves」。  この版画集は年末にかけての全国の画廊同時開催のリトルクリスマスの中で新たな企画として展示してもらうことになりました。若手作家の挑戦を是非ご高覧ください。    ちなみに鞘のごとく包みとして機能している風呂敷にはこの完成品に至るまでに作った各作家の試作品の一部がスクリーンプリントで手刷りされています。
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 色々な場所で芽が出ていくことを作家一同願っています。  

 個展搬出でまたどっと引き返してきた作品達を整理しつつアトリエの片付けやら腐食液周辺の改良をしていました。  今回は新旧混ざった作品展示で、割とまとまった方向性のようなものが見えてくるなと並べたのを眺めながら思いました。懐かしい顔に出会ったり、何度か来てくれる方もいたりで段々突っ込んだ話にもなり退屈しませんでした。  地元の方や遠方の方、新聞で見て来てくれた方、偶然飛び込みなどの幸運に恵まれ、作品もたくさん嫁ぎました。  気まぐれですが嫁ぎ先などに暑中見舞いを送りたくなったので刷ってみました。そのうち届きますお楽しみに。
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 今日は溜まっていた片付けと暑中見舞い刷りが終わったので涼しかったことも手伝って陶芸小屋まで自転車を漕ぎました。往復3時間ほど。右足左足右足・・・同じ動作の繰り返しが気持ちいい。登山が好きなのもほとんどそれがしたいから。  芝川の草は強い影を反転した真夏の空に落とします。
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 誰もいない小屋に着くとすぐに土を捏ねるけれど全然カタチにならない。3個目くらいからやっと器のカタチに。なまる。相変わらず出そうとしてない味が思いっきり醸されてしまいますが、土にしばらく触っていれば気持ち良くなってくるので良しとする。
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 結局一息で5個作って落ち着くとすぐに自転車で帰りました。運動と土でだいぶ満足。あとは絵が見たくなったので銀座へ。流石に電車。  養清堂画廊で先輩の版画家小野耕石さんの新作個展。原点回帰とおっしゃっていましたが確かに大学時代の鱗粉のような作品大~小。立体的ドットの作品ですが角度による色の移り変わる迫力も自然なムラのカタチも独特で面白い。見続けているせいか変化に気付きます。少し前までは機械の部品っぽい点柱でしたが今回は生き物の一部っぽい印象でした。写真だと映らない体験型の作品。ストイックな挑戦をし続けている感じが伝わってきます。10日まで。おすすめです。
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 その後ブリジストン美術館がまだやっていたなと思いだしハシゴ。マチスの「ジャズ」、ステンシルの軽やかさと切り紙コラージュ原稿のニュアンスが楽しい。手技を感じるのに手技とは一線を画す。ルドンのリトグラフ「夢想」。こちらも物語性とビジュアルの関係が詩的で絶妙。じっと見ていると違う世界に引き込まれそうな怖さも魅力。  繰り返す手技にこだわるほど手技と距離が出てくる印象を与える版、という表現には今でも新鮮な発見がある気がします。

版表現

 今日も70人のベイビー達のおしめを取り替えながら他の作品制作。大分乾いてきました。  版画は割りと工程がはっきりと分割されているのである部分が終わらないと何か思いついても次には進めません。例えば腐食中は気があせっても仕方ない。乾燥中もそう。つまり待ち時間が多いということ。その歯痒い待ち時間中に何をするかというと別のイメージを新たに作ってみるわけです。最初の作品の合間に始めた作品がだんだん増えて5~6点同時に進行しつつなんていう時もあります。フーガの指揮者みたいと調子に乗っていると、腐食時間がこんがらがったりして大失敗することも。失敗から新しい発想が生まれることもありますが・・・。  まあそういうわけで結局始めに意図したわけではなくとも連作として発表することもあります。これは銅版を扱う作家に多いのか、自分がそういうタイプなのか分かりませんが。     大学で版表現コースを選んだのは銅版が刷りたかったからという単純明快な動機からでしたが、卒業する時には結局木版、リトグラフ、スクリーンプリントも一通り試している。しかも思いのほか他版種も興味深かったのは目から鱗でした。要するに面白さを知らなかっただけ。思い込みは恐ろしいものです。  知識として知り、他人がやっているのを観察し、自分が創意工夫してみる。  うちの大学は、全ての版種の学生が同じアトリエという世にも珍しいスタイルだったのが自分にとっては好都合でした。銅版をやっている隣でリトグラフをやっていたり、木版の学生がスクリーンプリントの学生を手伝っていたり。2版種以上を併用する学生も結構いました。  お互いの版種の愚痴をこぼしたり大失敗や大成功をすぐ近くで目にしたり、誰かが試し刷りを置いておくと勝手に講評が始まったり。「版」というものを使うのは個人の表現のひとつなのだという雰囲気が自然と漂っていました。教授や非常勤講師との距離も近く、先生というより先輩作家という感じで思ったことを気軽に話したり出来たのも、微に入り細に渡って特殊な技法を身に付け、各々の表現を煮詰めていくには良かったのではないかと思います。    油絵も版画もテーマや素材、構成などの絵の内容を考えるのはまったく同じ。言ってしまえばそれは作家なら当たり前のこと。それに加えて版画という表現ジャンルが身に付くというのは幸運だったと思います。仮に版画をやらなくなったとしても頭の片隅には版画脳の領域があります。    何より、たくさんのエディションを刷り上げることも、大きなサイズの銅版制作も以前の自分の意識では間違いなくできなかったことです。  人よりも不器用であることを自覚している自分にとってそういうことがひとつずつ出来るようになることは大きな喜びです。自分が妄想したことがゆっくりと現実に変わっていくのをひしひしと感じるのは作り手冥利に尽きるのです。すぐに何でもさらっとこなせる人は見ていてうっとりするほどカッコイイし、眩しくて羨ましいけれど、こういうじわじわ湧き上がってくる味わい深い気持ちは感じることはできないのではでなかろうか。  表現するという字の通り表には決して現れないし、問題にもされないけれど、作り手の感じるこういう気持ちを伴った成長による作品の進化いうのは案外「ものを作る」という行為の根本に触れる重要なことのような気がしています。
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暑中エディションⅢ

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   理科の実験器具を思わせる奇妙にシンプルな形。  もっと複雑で凝った雰囲気の物もありそれはそれで目を楽しませてくれますが、今回は無駄のないフォルムに一目惚れ。豆の上に水を置き、垂らして放っておくという大らかさも気に入った。毎日暑いので美味しいアイスコーヒーを飲みたい欲求から水出しコーヒーサーバーとの交際を始めることにしました。  ドリップは飲みたい時に素早くアイスコーヒーが飲めるのですが、出来た瞬間が一番美味しく保存には向きません。また少し渋みが強め。一方水出しは淹れるのに2時間かかりますがコーヒー豆に熱や圧が加わらないので渋みが少なく酸化しにくいので1~2日経っても美味しいそう。  まあ単純に豆を焙煎してもらった店で飲み比べたところ香りや味がかなりクリアな感じがし、時間が許されるなら少なくともアイスコーヒーは水出しの方がいいなあと思ったわけです。手間も大してかかりません。岩清水のごとく豆を通過しぽたぽたと垂れる姿も暑気払いに一役買ってくれそうです。  あまり早く落とすとぼやけた味になるかと思い今日は豆をかなり細挽きにして放置してみたところ水が思ったよりもなかなか落ちてこない。気づけば3時間近く経っていました。案の定かなり濃いめ…。また明日挽き具合を調整して再挑戦です。記念すべき交際1日目は慎重過ぎたよう。  ぽたぽたを聞きながら今日からは刷った作品の乾燥仕事。  銅版は凹部のインクを刷り取ることを想定して製版し、紙の繊維を満遍なく湿しクッションのようにした状態で強い圧をかけます。従って刷り上がり後によく乾燥させないと波打ったり黴が生えたりしてしまいます。今回は枚数が多いので板に水張りせずに重し乾燥。  作品、合紙、吸い取り紙。作品、合紙、吸い取り紙。作品、合紙、吸い取り紙…。の繰り返しでひたすら重ねて最後に上に重しを置きます。こういう時には巨大な画集が大活躍。合紙と吸い取り紙に水が移るので1日2回程全ての合紙と吸い取り紙を替えます。乾燥するまでその工程を繰り返します。知り合いの作家はおしめの取り替えと表現していましたが言い得て妙。  これが地味に時間がかかります。なんせ70人以上のおしめ替え!うまく乾くといいのですが。
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暑中エディションⅡ

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 アトリエに熱気が充満しています。去年から愛用しているサーキュレーター無しではいられませんが風を当てているだけで結構我慢できます。  さて昨日の続き。60部刷りとはいえA.P.(作家用の刷り)やH.C.(贈呈用の刷り)などのことも考えてそれより15部くらい多めに刷ります。1枚ずつ手仕事なのでどうしても刷り損じや微妙な差が出てきてしまうので、乾燥後あまりに違う刷りをはじく前提で多めに刷るのです。勿論60部以上エディションに加えることは絶対にせず、最終的にボツになったものは破棄します。全部刷り終えて今のところ拭き上げ失敗1枚、雁皮ずれ1枚、計2枚失敗。う~ん未熟。さらにむらのあるものをはじけばまあまあかと思います。  版は結局作者が気に入っていないと最後まで刷るのが辛い。エディションを想像して本当にこれで最後まで刷れるか、と制作途中で自問自答したりします。今回はなんとか気持ちがもちました。  版画を始めたばかりの頃に版画のエディションについて、同じ作品をそんなに刷ったりなんかとてもじゃないけれどやってられない、同じ動作の繰り返しなんて息が詰まるし、はっきり言ってまったく芸術とは無関係だと思い込んでいました。  その意識に変化があった決定的な出来事は先輩作家の刷りを手伝ったというか、手伝わせてもらった数週間の経験です。  版画芸術という雑誌の付録版画の企画だったのですが、6000枚という大量のエディションを刷る手のひとつとしてアトリエに通いました。大体毎日60~100枚くらい刷り続ける。その作家は道具や環境を刷りやすいようしっかりと揃え、刷る動きの流れに無駄が無いよう考え、刷りの微妙な変化に対応して、紙の湿し具合やインクの硬さ、拭き上げ方、プレス機の圧の微調整を常に行っていました。それを間近で見られたことは色々な工夫を学べたという何にも代えがたい財産になっています。本では学べないこと。さらにそれを何日も繰り返していると、版とインクとプレスの関わり合いが自分の身体を通し呼吸するように馴染んできます。版の具合を見ながら刷り方も微調整する、刷る時も絵を描いているような感覚です。途中で「この版は、僕が作ったけれどもう齋藤君にしか刷れない。」と作者に言われました。版に対し愛着が湧き、ああ、こうなりたいんだな、お前の気持ちは分かっているよという感覚になり(プリンターズ・ハイ?)、最後まで刷るのが嫌だとは思いませんでした。そしてそれ以上刷れなくなって版が潰れる瞬間を体験した時はああ、本当にお別れだと思い、達成感とともにちょっとした感傷もあったくらいです。  そのお陰で随分タフになりました。ありがたいことです。     

暑中エディションⅠ

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 折鶴蘭を植え替えました。  古い植木鉢から出すと根っこがその形になっています。土は何処へ行ったのか。サラッとした葉の外見とは裏腹に太い根はびっしりと張り巡らされて水を蓄えるそう。  さて銅版のエディション60部をまとめて刷りあげます。全部一度に刷り上げるのは保管の都合上普段あまりやらないのですが、年末に全国の画廊で同じシーズンにやるクリスマス企画のための準備です。真夏にクリスマスの作品をつくるというのは些か不思議な感覚ですが。  版画は複数の兄弟を生むメディアです。  いくつもあるという事は同時に色々な場所に行けるということ。ひとつの母版から生まれた紙の兄弟達が旅をします。色々な土地の画廊で色々な人に出会い、その土地の人と暮らす事になることもある。  作家本人より先に見知らぬ場所へも次々に送り出せる、そんなフットワークの軽さは版を扱う作家の強みだなあと思います。  絵を描いてからそれを再び版に起こす、という特殊な遠回りをあえてする理由のひとつ。  版を刻むのが種蒔きだとすれば、真冬に展覧会を迎えた際に人の目に触れる作品は葉や花。差詰目立たない根っこは刷りということになるでしょうか。  真夏にエディションいっぱいにせっせと伸ばします。
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いずみ紙と淡い紫の染め雁皮紙。それぞれ60枚。

アトリエの1日

 昨日の遠出と打って変わってひきこもり。今日はアトリエから1歩も外に出ませんでした。    部屋にいながら霧雨の中咲いたアガパンサスを眺めます。その名の通り愛らしい。アフリカ生まれで別名アフリカンリリーとのこと。前の家主が植えていったものですが、常に目に見えるところに花が咲いているというのは気が利いていますね。自分だけでは到底そこまで気が回りません。お陰で興味が広がりました。    ブルガリアの民族音楽をBGMに制作していると、雨に包まれながら静かにどこか別の世界へ旅する様な心地。  音楽は良くも悪くもその場の雰囲気を強烈に支配するので制作には向き不向きあって、邪魔に感じる時は窓から聞こえる外のなんでもない音の方がはるかにましな時もありますが、今日は落ち着いた気持ちを助長するものだったのではかどりました。  未発表で筆が止まっていた作品にやっと加筆(加針?)少し動いてきて呼吸が出来ました。しばらくほっといて良かった・・・かも。まだ分からない。また明日からその続きです。
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試刷りと完成

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 満開の紫陽花はこんもりとして触覚的な視覚が気持ちいい。花単独では額紫陽花よりも好きだけれど全体の佇まいになると蔓紫陽花も捨てがたい気がします。    紫陽花を横目に新しい版が出来たので試し刷り。  刷り上がりのイメージがはっきり決まっていなかったのと、染め雁皮紙を試してみたかったのであれこれ刷ってみる事にしました。  雁皮紙という細かい繊維で漉かれた薄い和紙は、浅い溝のインクも刷り取ってくれるのでプレスする際にベースの厚手の洋紙にインクと一緒に張り込みます。  雁皮刷りと呼ばれる技法。それが自分の刷りの基本です。    仕上がりは一見モノトーンの作品ですが、インク自体の色と2枚の紙の組み合わせにより作品全体の色の印象が微妙に変化します。意識しない他人の目にはほとんど変わらないでしょうとおっしゃる方も大半だろうとは思いつつも、つくる方としては少しでも良く仕上がる可能性があるかも…と思ってしまうとやらないわけにはいきません。  会場で気づいて指摘してくれるコアな方に会うと報われた気がしてちょっぴり嬉しい。    刷り終わって並べた時の直感でぴんときたものをとりあえず第二候補くらいまで絞り一旦完成。  最近では発表前にしばしアトリエから出さずに他の作品をつくりつつ眺める期間をなるべく長くおくように心がけています。故にエディションを刷りあげるのはもう少し我慢。作品の方からお呼びがかかってきたら刷り方や版自体に手を加えます。  当初の予定通りで1回、それを少し突っ込もうかなで1回、予想外のことが向こうからやってきたり、こちらが飽きてわざと踏み抜いたりでじたばたして1回・・・。  発表は締め切りであり、それまでに「完成」が何回訪れるかは作品と自分の関係次第です。完成は制作の終焉ではなく一部かもしれないと思います。半ば無理やり締め切りがやってきたけれど思いのほか良いなあという時と、手を加え続けて段々良くなるのと色々。  作者と作品の関係は一筋縄ではいきません。
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 夕方から稚鮎の天婦羅と小エビのかき揚げで日本酒。 この季節の稚鮎が美味とのことで知り合いに勧められて食べに行きました。  期待を裏切らず絶妙な苦味でいくらでもいける。鮎と言えば塩焼きだと思い込んでいましたが、いいものを知りました。

見知らぬ花

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 去年の秋口から育てているクワズイモの葉がすくすく増えて倍くらいの枚数になりました。思い付いたように中心部から茎のようなものを出したと思うとそれが開いていき葉になる。  ある日同じように、けれどいつもと少しだけ違う様子の茎が出てきたと思っていたら、その中にフードを被ったような花が咲きました。茎の延長のごとき地味な花で突然対面したので何が起こったのか分からず一瞬動揺。花だと分かるのに間がありました。  見た目は大して美しくなくとも、毎日育っているのを見続けてだんだん力を蓄え、ついに咲いたかと思うとささやかながら嬉しい。最近ではすっかり植物たちが制作の相棒然としています。  出てきたものから考えて作品を進行するということに図らずもなってしまうことが続いたので、逆に頭で計画を立て、その通りに身体を動かして無駄な動きをなるべく抑制して銅版をいじったらどういうものが現れるか。という事を見てみたいという欲望に駆られて作品を何点か制作しました。  しばらく見ていると作品側からの声を聞いていなかったように感じられてきて、聞こえてきたものからもう少し踏み込んでみようと思い直しました。押しつけがましかったので作品との距離が出来すぎてしまったのかもしれないと反省。    制作の中心に銅版を置いてやるようになってから、タブローを描いていた時にはそれ程考えていなかった計画性の大事さを知りましたが、それが学びになって意識して偏りすぎると今度は思ったほど遠くまでいけないようにも思い始めました。  計画の段階での詰めは大事だけれどその内容は、実際に表面化することよりも自分が何を大事にしているのかということをしっかりと確認するということなのだと思います。このように文字にすると当たり前なのですが、自然に出来ているときはすばやく通り過ぎてしまうことなので案外気付きにくく、そこから離れた制作をやったからそういう実感が自分の中に落ちてきたのかもしれません。直線的には成長できずぐるぐる。ぐるぐるがちょっとずつでも上がっていれば良いけれど。    作品達は最初に作者が期待した育ち方をせずに別のことをこちらに囁き始めたのでもう少し付き合ってみることにします。

だいくさんといっしょ

 アトリエの雨戸を開けて、朝日が射し込む時間になると大工さん達も作業を始めるところ。  隣に続いて向かいも工事が始まりました。家の断面図が剥き出しになるのを見ていると子供の遊ぶドールハウスのよう。だいたい同じ時刻にこちらも制作を始めます。  ガタガタと続いていた音やかけ声がぱたりと止まると昼休み。こちらも昼食。  1時間ほどのんびりしてお互い作業再開。  暗くなってきて、雨戸を閉めた後もしばらく外から音は聞こえてきます。    しんとなってもこちらはなかなかふんぎりがつかず、終われません。  真っ暗な外に出てさて帰ろうとすると、ライトの中まだ作業をしている人がいました。  お先です、と口には出しませんが勝手にそう思いながら帰ります。    最近の1日です。
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大きな銅版の話

 昨年は小品ばかり作っていたので年末から大きめサイズの銅版をつくりました。    短期間ではなく少しずつ進むので、可能な限り毎日の制作ペースを守ります。  小品と違うと感じるのは特に腐食と刷りの時です。銅版そのものの面積と重量を感じます。腐食液やインク、紙の量も違います。  文字に書くとあっさりですが、想像するのと行動するのはやはり違います。  些細なことから大きな問題まで小品からは想像できないようなことが制作中に発生し、それにぶんぶん振り回されながらも振り落とされないように完成までやっとたどり着くような感覚。  色んなタイプの絵描きがいるかとは思いますが、長距離ランナーのようにペースを守って走り続けた上にここぞというところでスパートをかけられる体力と気力が自分にとっては大事なように思います。あくまで理想です。  計画性や柔軟性がもう少しあればさらに良くなったはずでは…と展示してしまってから気付く作品もあります。きりがない。  学生の頃より少なくとも手際はよくなっていると思いたいですが、なかなか予定通りとはいかない不器用さに気付きじたばた。  それが普段と違うサイズの作品を作るひとつの醍醐味と言えないこともないですね。  出来たばかりの大きな銅版の刷りを眺めている時はそれまで制作に費やした時間の厚みが一気に目の前に立ち上がってくるような爽快感と満足感があります。  またこれを味わいたい…と新しい版にする銅板を磨きます。
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 この作品は今度の展覧会の案内状になる予定です。

寒中腐食

 銅版の腐食作業は外です。  朝、すすぎ用のバットを見ると張っていた水がカチンコチンに凍っています。水道も凍っていてなかなか出ません。  大きい作品だとその分水を使う作業が長いので、手は「冷たい」というより「痛い」です。  真冬には避けたい作業ですが、大学生のころからのリズム(卒業制作など)の名残かいつもこの時期に大きい作品を作ってる気がします。  寒空の朝、外でバットに向かいなにやらちゃぷちゃぷやったり水をかけたり拭いたりしている光景は奇妙に見えるらしく、気付くとすぐ隣の大工さんが凝視していました。挨拶したら目をそらされてしまいました。  まあ明日も変わらず腐食です。  画像